天真爛漫ちゃらんぽらん

みみずのたわごと

浜松城の松籟に偲ぶ

うわァお!! 起きてきたら9時まわってた。
居間に座って、ぼけぇぇ................
外は雨が降っている。テレビでは箱根に大雪の報道。

デスクの気温計は19.7℃。ちょっとだけ寒いか。
真っ白な画面を見て、雪国育ちのパトさんがしみじみという。
「温かいところへきてよかったァ」

オレにはくみとれない感情があるんだろうね。
去年の冬は雪がちらつくことは、1回もなかったものな。
この冬は寒いから、1回や2回は降るかもしれない。

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 ↑ 左は遠州灘/右は浜名バイパスの大橋

浜松城の天守閣から1200mm望遠で撮ったら、
遠州灘と浜名湖の浜名大橋が見えたのだ。
富士山は残念ながら靄がかかっていて見えなかった。

天守展望台の西向きは空っ風が強くて、
浜名湖渡りの風が松籟を鳴らすという表現が、実感できる。
唇を噛みしめて松の枝を鳴らす音を聞いたんだなァ。

誰がって??
この城にあった徳川家康は、幾多の難題を凌いだわけで、
この時季に天守へ登ると、それを感じるのだ。

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今川が桶狭間で滅び、遠州へ進出した家康だったが、
執拗な武田軍と対峙しなければならず、
最初は掛川城を居城にしようとしたらしい。

ただし、同盟の織田の加勢を頼みとすると天竜川が気にかかる。
増水でもしていたら足止めになってしまう。
で、三方原台地の南端に城を築いたのが、浜松城なのだ。

秀吉によって江戸へ移封されるまで、
この城で凌いだ若き日の家康公を冷たい空っ風が偲ばせるのだね。
山岡壮八「徳川家康」でも、この松籟云々はよくでてくる。

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てなわけで、昨日は6200歩あるいてるので、
今朝の体重測定では2kg 減っている。
これが維持できましたらおなぐさみ.......... だけどねぇ。

来週は紅葉撮影にゆくので、
なんとか3kg 減まではと思っているが、
いかがなもんでござんしょう?

晩年の家康公はかなりの肥満体だったという。
壮年期で、155cm、60kgの小太り体型であったそうな。
浜松城天守にある鎧はでかいけれど、案外と小柄ではあったんだね。

ま、家康公といえば愛知県岡崎、浜松と晩年の大御所で駿府、
それから江戸と、縁の土地はあるわけだけれど、
ま、早い者勝ちってことで、「家康くん」は浜松のご当地キャラ。

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 ↑ 五社神社の賑わい☆画像クリックで拡大します

浜松城での苦労ばかりをいってるけれど、
ほんとは岡崎城にあっても、ぐいぐいと勢力を伸ばしてゆく織田の陰で、
家康公も、従う三河武士も、言葉に尽くせぬ苦労をするのだな。

襤褸を纏って田植えをし、
いざとなれば立派な甲冑を着たという三河武士である。
その忠誠と堪え忍んだ年月はいかばかりかと思う。

駿府では人質であったし、今川の姫だった正室は岡崎へおいたまま。
で、浜松へ呼び出して、あら、うれしやと佐鳴湖畔へ着いた途端に、
その正室築山御前は切られてしまうのだ。

亡くなったのが元和2年 (1616) だから11年を駿府で過ごした。
駿府は家康の心のなかで確執があったはずなのに、
晩年の大御所時代を過ごすのだねぇ。

亡くなって久能山東照宮へ祀られるわけだが、
ここと江戸城と日光東照宮とは一直線上にある。
つまり、隠居の地を駿府にしたのは天海和尚の思惑があったのではと思う。

人質時代を過ごした駿府だから懐かしいなどという、
情緒や郷愁だけで、けっして晩年の家康公は動いてはいない。
なにか大きな理由があったのだ。

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家康公がたった1度の負け戦、三方原で散々な目に遭って、
浜松城へ逃げ帰り、描かせたおのれの像がこれだという。
ほんと、情けない顔なのだけれどねぇ。

生涯の戒めにしたというのが、この「しがみ像」なのだ。
いつもパトさんとランチしにゆく公園あたり、三方原古戦場にあたる。
なぜ、勝ち目のない戦に挑んだのか。

だいたい、鶴が翼を広げた陣形なんて大軍がとるものであって、
徳川軍の一重しかない「鶴翼の陣」はたちまち破れてしまい、
家康生涯一度の負け戦となったのだ。

昨夜、映画「アレキサンダー」を観ていた。
やはり25万のペルシャ軍に向かって2万の兵で挑むのをみて、
三方原の戦さを思い出したのだ。

ずいぶんまえのはなしだが、秀吉贔屓の人と、家康贔屓のオレが
歴史話をしていて、三方原で徳川軍が「鶴翼の陣」を敷いたといったら、
「それはなかろう」といわれたことがある。

城にこもって見過ごせば、武田軍はそのまま通過していったはずなのだ。
なにゆえ、晩年はあれほど慎重な家康がつっかかっていったのか?
すぐに破れる一重の「鶴翼の陣」を敷いたのか。

それは意地なのか、信長への意地か、おのれへの意地か。
ま、そのあたりの心理に至らねば、
普通の兵法ではない行動をとった真理は測りかねる。

武田への上洛を促す公家勢力もあったようだから、
この先に織田が待ち構えているのに兵を削ぎたくない武田の理由があって、
浜松城の城門開け放ちっていう破れかぶれ戦略に軍を退いた。

あのとき武田勢が攻めきったら................
のちの徳川幕府はないわけで、歴史がどうかわっていったのかって、
「歴史のIF」っていうのはおもしろいねぇ。

この負け戦の教訓が、
かの「鳴くまで待とう..........」の家康公をつくったのだろうか。
わざわざ「しがみ像」を描かせた心のうちが知れる。

あらま、今日は家康公を語ってしまったね。
ほなあした...........

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