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2017-04

真っ赤に空が燃えていた夜の記憶 - 2016.05.20 Fri

曇りだね。昨夜は盛大な夕焼けだったのにィ。
天気予報みたら晴れることになってる。
でも現実の空は雲びっしり。

デスクの温度計は25.4℃。
もう半袖Tシャツでいいね。
ラクチンだね。

注文しておいたデニムのキャップが届いた。1500円なり。
パトさんがかぶって鏡をみにいって「わたしもほしい」って、
注文するまえにいいなよ。

16519-a2.jpg

写真撮るときはツバの深い帽子も邪魔だし、
こういう野球帽がいちばんいい。
ただし、うしろまえにかぶるとおでこにヘンな日焼け跡がつく。

16520-a1.jpg

夕方は西向きの窓がある和室にいると夕日がみられる。
この時間帯って飛行機雲がよくみられるのだが、
ちょうど浜名湖を通過したあたり、南へ方向転換するポイントらしい。

直進する飛行機あるのだが、焼津上空を通って羽田が航路だと思う。
自分の上空は1度しか飛んだことがない。
九州へは名古屋からだし、北海道は羽田からだしィ。

静岡空港はあるけれど、名古屋セントレアまでとおんなじ時間だしね。
いまは中国からの観光客でなんとかなってるらしいが、
あれは大いなる無駄だったと思う。

16520-a2.jpg

電線ジャングルのなかへ夕日が沈む。
しかたないね。
街中では電線のなかから日が出て電線のなかへ沈む。

窓開けっぴろげて写真撮っていて、終わったら肘が痒い。
え、蚊に刺された?
こっちに越してきて、一度も刺されたことないのに?

そうか。蚊がでる季節なのか。
考えてみれば去年の6月初めには、新しい住み処を探してた。
6月10日に、この部屋にめぐりあったんだからね。

16520-a3.jpg

オレねぇ。
「爆弾低気圧」って言葉を無神経に使われると、怒りを感じる。
あ、爆弾って言葉にね。

昨日もちょっと触れたのだが、あの暑い夏の夜、
燃え落ちる市街地から逃れて、振り返った空が真っ赤に燃えていた。
あの光景を忘れることはないからだ。

ある世代には、爆弾や焼夷弾、空襲などという言葉は、
戦争の忌まわしい記憶として、脳味噌の隅にこびりついているのだ。
全国の主要都市は、執拗な米軍の爆撃によって焼かれた。

この街には軍事施設があったので、
機内に残った爆弾は全部浜松へ落とせと、指令があったそうだ。
いま、われわれが住んでいる、この土地で阿鼻叫喚の悲劇があったのだ。

幼な児だったごんべの脳には、70年経ってもB29の爆音が残っている。
不気味なサイレンや、防空壕を揺るがした爆弾の破裂する音、
夜空を照らす探照灯の光景は、いまも消えはしない。

沖縄、長崎、広島だけではなかったのだ。
東京を始めとする主要都市で、こういう本土空襲が繰り返されていた。
いま、平和に暮らしている、この土地で..............

だから「爆弾低気圧」などという言葉を、
安易に使う気象庁の無神経さに憤っていたのだ。
どんどん少数になるけれど、不愉快な人だってある。

16520-a4.jpg

この夕焼けの空が真っ赤になる光景は、
幼な児がみたあの夜の色に似ているかもしれない。
だから夕景をみると切なくなるのだ。

戦後、これらの出来事は忘れさせられてきた。
つまり、あの戦争は統治したGHQも、
この日本国民も喉元過ぎて、なかったことにしてしまったのだ。

次の世代にも教えてこなかった。
教える立場の人に、日の丸や君が代を未だ拒否し続ける人たちがいた。
いびつなまま、70年余りが過ぎた。

それから、勤勉なこの国の大人たちは、あまり後ろを振り向かず、
めまぐるしく変わっていく世の中の復興ぶりを謳歌した。
あの有頂天のなかで、誰も過去を振り返りはしなかったのだ。

あの夏の暑い日に、ラジオから天皇の声が流れたことは、
われわれが、この国から消滅するころには、
歴史のなかに埋没してゆくんだなァ。

16520-a5.jpg

オレは終戦で4歳であるから自分の記憶であるのか、
あるいは、大人たちが折に触れて語った恐怖話の刷り込みであったのかは、
いまとなっては、オレの脳味噌のなかで判別はつかない。

この街は、飛行隊があったし、軍需工場が多かったから、
幾度となくB29の爆撃を受けたのだが、
街全体が燃えて、わずかな、手荷物を持って逃れた記憶が断片的にある。

あの夜空を焦がして燃え盛る光景は、脳味噌の奥に焼きついた。
オレは祖母に手を引かれ、眠ったまま歩いたそうだ。
途中から、乳母車へ積んだ荷物を捨て、なぜか西瓜と一緒に座っていた。

その道は、ぞろぞろと街を離れて歩く人たちで、祭りの縁日のようだった。
市の資料を見ると、度重なる空襲で3000人の人が亡くなっている。
浜松だけではない。全国の主要都市は、同じような空襲をうけたのだ。

アメリカは、原爆投下は双方の犠牲者を増やさないための手段であった、
といい続け、65年を経て初めて駐日大使が広島に参列した。
そして、いまようやく大統領の訪問が決まった。

進駐したマッカサーが、この国をどうしたのか、オレたちは見ている。
が、この国の教育は、その事実を避け、悲惨な戦争の現実が、
この土地であったのだということを、残念ながら知らない若者が多いのだ。

何年かまえの暑い夏に、これと同じことを書いた。
女子大生のコメント投稿があった。
「それは日露戦争のことなのですか.........」読んで唖然とした。

この国は、たしかに、あれほど叩きのめされながら、
急速な発展を遂げてきたけれど、自分達の経験したこと、してきたことを、
次の世代に伝えてはこなかったのだ。

日教組というわけわからん怪物の仕業なのか、
あるいは、アメリカの核の傘の下で国民に事実を伝えずに、
自身はノーベル平和賞を受けるような総理大臣が国を動かしていたからなのか。

その大空襲のあとで、70kmほど離れた山の中へ疎開した。
時折、成層圏を飛行するB29の不気味な爆音は聞こえたが、
けたたましい爆音を立て、気紛れに機銃を放つ艦載機は飛んでこなかった。

ここに父親が仮住まいを建てた。
それが、川の土手に建てた家で、道路からは1階、川からみると2階。
つまり、土手の斜面から河原に家があった。

窓の下は清流だった。
あの夏、ごんべは浅い川水のなかで一日を過ごした。
で、魚を見つけだしたのだ。たぶん、カジカだったのだろう。

何日も何日も追いかけたが、
5歳の幼児にその魚を手にすることはできなかった。
ある日、それをジィちゃんが見つけた。

2人でミミズを探しにいく。コンニャク畑だった。
やっと、ミミズを畑で見つけだし、
木綿糸の先にしばりつけてカジカの鼻先にもっていく。

が、プイッと横を向くのだ。
手がふやけるほどやっていたらしい。
で、ある瞬間、そのカジカがミミズをくわえたのだ。

ブルッ、ブルッ。
この生涯初めての感触は、
釣り好き遺伝子を呼びさますのに充分なものだった。

ある日、大人たちがラジオの前に集まっていた。
これが終戦の玉音放送であった。それ以降の記憶はまったくない。
この記憶も実際に見たのかは定かでない。

今日の記事は過去ログの加筆なり。
ほなあした............

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