Fri.

キング・オブ・ロックンロール

そうなのであります。
エルヴィス・プレスリーが生きていれば、今年は70歳でありました。

1月半ばに、NHK-BSで5夜連続の特集が放送され、
もちろん、ばっちり録画して、湯川れい子さんとともに偲んだのであります。

エルヴィスといえば、あの髪型リーゼント。
私の先輩には、あれをびっちりとキメている人がいて、
これが暇さえあれば後ろ髪へクシをいれ、両鬢から持ってきて、真ん中で縦筋入れる。

私も、これをやってみたいのだけれど、
なにせ親から貰ったDNAが天然パーマだものだから、どちらかといえば山下敬二郎。
エルビスのようなきれいなヒサシは絶対にできっこない...のでありました。

それで、床屋さんに相談して、短めにカットして、ケネディカット。
で、ファッションもヘアースタイルから靴の先までアイビーにかわっていく。
以来、今日までボタンダウンシャツを着続けるとともに、カットもかわってはいない。

ま、ここまでくれば、この先も、このままだろうし、
カミさんが、本気か冗談か、ワタシがバリカンでくりくりにしてあげるわよという。
けれど、アイビーひと筋30年、いまさら五厘刈りを、はい、それではとはいかないねぇ。

別にダンディズムを忘れたわけではないけれど、
ま、人間50年以上もやってると、鏡の前でドライヤーがぁがぁーて時間も短くなる。
これが、天パーだからやらないわけにもいかないが。

たまに、三面鏡で"てっぺん"覗いて、「あら、ここらが限界だわい」とは思うけれど、
これとて世間一般並み、地肌が出たわけでもなく、それほど気にすることもない。
腹は太くなるが毛は細くなる...という自然の摂理にしたがったまで。

ところが世間には、
いくつになっても黒々ふさふさ...てヤツがいるもので、
こういうヤツに限って他人の頭髪事情にデリカシーのかけらもないんだなぁ。

つい先日も先に歩いているあたしに背後から忍び寄り、
てっぺんピシャリと叩いて「おい、おまえもちょっときたなぁ」と容赦なく笑う。
それほど気にしてはいないけれど、このときばかりはムラムラと殺意がわいてきたねぇ。

6eb1a2951e65c33b18080ae995491986.jpg
エルヴィスはこれ1枚

で、エルヴィスだったねぇ。
「すべてはエルヴィス・プレスリーからはじまった」といったのはジョン・レノン。
講釈いってもしかたないけれど、唯一人のキング・オブ・ロックンロール。
これ、書いてる途中で小一時間ほど、公式ファンクラブで遊んできた。

リアルでは、あまり好きではなかった。
「ブルーハワイ」「GIブルース」などという映画も観ている。
扱いがチャラチャラと、まるでアイドル映画の作りで軽かった気がする。

もっとも、後の音楽の流れが、
「キング・オブ・ロックンロール」にしたのであって、
それは、美空ひばりさんが、時の経過とともに偉大になっていくのと同じなんだろう。

だから、高橋ジョージは、
年齢のえらーい若いカミさんとバラエティ番組にでて、大笑いしてちゃいけない。
空き巣に入られて、ヘィ、ベーヴィ...と真っ白長髪なびかせていなくてはね。

■今日のみーつけ
有田芳生の今夜もほろ酔い
有田さんのWeb saite. 日記が読めます。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
16:59 | 遊々爺的生活 | edit | page top↑
Thu.

イナバウワー

荒川さんの"イナバウワー"観ると、映画好きな私は「マトリックス」を想い出す。
もっとも、映画のほうはワイヤーアクションだったらしいけれど。

428_1.jpg

429_1.jpg

430_1.jpg

431_1.jpg

432_1.jpg

433_1.jpg

435_1.jpg

437_1.jpg

438_1.jpg
 ▲テレビ画面を撮影/マトリックスを想い出す

■今日のみーつけ
コンパクトカメラ用語辞典
難しい言葉はここで調べてみましょう。
それでも分からなかったらここへ質問してください。
にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
15:13 | スポーツの話題 | edit | page top↑
Tue.

春の風に...

うちのWeb siteは奥行きが深くて、初めておいでになると迷うくらい。
毎日、午前中に3つのホームページを巡回して、掲示板へコメント付けて歩く。

あと4つのBlogなど日替わりコンテンツを埋めると、だいたい2時間かかる。
ま、暇人だから、これが日課でもどーてこたぁない。

訪問してくださる友達も、どこかに足跡を残してくれていて、それがまたうれしい。
奥行きが深いもから、あれ、今日はここ、という、鬼ごっこ的なという楽しさがある。

昼から、自動車免許証更新にいった。Tシャツの上にブルゾンはおって外出。
あたしの服装も一気に春だ。ルンルン鼻歌ででかけたら、風が強い。めちゃ強い。

ヅラが飛んで...いくような心配は要らないが、
最近ちょっと中途半端な長髪なので、風に掻き回されてセットが乱れる。

で、天パァ...なので、もじゃもじゃの免許証の写真、この顔に5年もつきあうんかいな。
天然パーマのDNAばかりは親に返上したかった。

で、最近、難しいことを考えようとすると、
脳のどこかで、そんな面倒なことやめようよ...という何者かの声が聞こえる。

そうすると、そうだそうだ、やめよ...とすぐに同調してしまう何者かもいる。
だから、脳味噌の上っ面は使うけれど、奥のほうまで掘り起こして使うことがない。

このままでいいんかいな。
使わないところの細胞が、それじゃ..とラクチンしちゃう恐怖が、なきにしもあらず。

7692d41bf7eca87a4cc6f5184a09ec29.jpg
 ▲昨日、撮ってきた桜

『人の勝手魚知らず』これは含みのあることわざである。
どんなに釣り師があせろうとも、魚はその食性にそってエサを食うのだ。

水中の条件は刻々と変わる。
釣り師が勝手な屁理屈をならべようとも魚の心は分からない。

なぜならば、魚は水のなかの生き物だからだ。
人類は、いくら驕りにおごったって、ほ乳類ヒト科という陸上の類人猿の一種。

人の知恵を尽くした道具やエサが開発され、
魚の習性の解明がどんなに進んでも、魚の知恵に敵わない。

ある識者がいっている。魚は地球上に出現して4億年以上、人類はたかだか100万年。
これは魚に敵うはずがない。

では、なぜ、こうも魚釣りに惹かれるのだろう。同じ人がいっている。
未知のもの、不思議なものに触れた驚き、発見した感動が尽きることがないからだと。

だから人は魚釣りにのめり込む。まさに真理。
魚釣りは自然に対面することである。大袈裟にいえば地球に向かい合うことである。

最近、人の勝手魚知らず、という言葉を改めて噛みしめている。
驕ってはいるけれど、人間の知恵は、実は、魚の知恵にも及んでいないのではないか。

■今日のみーつけ
似顔絵イラストメーカー
私の似顔絵もここでつくりました。
にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
16:55 | 遊々爺的生活 | edit | page top↑
Tue.

心に残るヒューマンドラマ

感動するために映画を観るのだけれど、ずっと余韻が残る映画はそれほど多くはない。
ま、それをどう感じるかも人さまざま、瞼を閉じると、ほら、あのシーンが...

《バグダッド・カフェ》 (1987年/独)
ジャック・パランス マリアンネ・ゼーグブレヒト/主演 バーシ・アドロン監督
LAとベガスを結ぶ砂漠の真ん中に建つ、モーテル「バグダッド・カフェ」。
ここに、ちょっと大柄なドイツ人の中年女性ジャスミンが居着いた。
彼女がいることで、モーテルの住人たちに変化が起きてくる。

西部劇の全盛期に仇役専門だったジャック・パランスが老いたカーボーイで好演。
オールドファンには、思いがけないところで...と得した気分。
テーマ曲、ジュベッタ・スティールのコーリング・ユー…がいい。
憧れの地へ ←行ってきた人のレポート。


 △バグダッド・カフェのテーマ曲【Calling you】

《ニュー・シネマ・パラダイス》 (1989年/ 伊・仏)
フィリップ・ノワレ ジャック・ベラン/主演 ジュゼッペ・トルナトーレ監督
シチリア島の小さな村の映画館、貧しい少年サルバトーレは映写技師に憧れる。
そして、失明した技師に変わって映写をする少年。
30年後、サルバトーレは映画監督になって故郷へ戻る。
ラスト10分はハンカチをご用意。

私も、幼児のときから映写室へ入り浸りだったから、この映画に思いがはいる。
テーマ曲は、そう、「荒野の用心棒」のエンニオ・モリコーネ。

fb31bfe5f8d21b84da925aa18a57ee9c.jpg

(私の手持ちDVDはまだすくないですが...)

《イージー・ライダー》 1969年/米
ピーター・フォンダ/ジャック・ニコルソン/主演 デニス・ホッパー監督 
麻薬で大金を得たキャプテン・アメリカとビリーは改造バイクでロスを出る。
人種問題、反体制運動、当時の世相をロックナンバーに乗せて投影する。
長髪、ヒッピー…その時代に青春を送った私たちの世代には忘れられない映画。

アメリカ人は自由を証明するためなら殺人も平気だ。
個人の自由についてはいくらでもしゃべるが、自由な奴を見るのは怖いんだ。
J・ニコルソンが演じる弁護士にこういわせている。

《ショーシャンクの空に》 1994年/米
ティム・ロビンス/モーガン・フリーマン/主演 フランク・ダラボン監督 
妻と愛人を殺した罪で終身刑となった銀行マンが、無実を訴えながらも服役。
経理の特技を活かしながら所長に気に入られていく。
20年目に無実を晴らす機会がきたが...ラストシーンは意表をつくが爽やか。

スティーヴン・ キングの短編小説「刑務所のリタ・ヘイワース」の映画化である。
アケデミー賞にノミネートされたが、次の「フォーレスト・ガンプ」にさらわれた。
名優、モーガン・フリーマンが好き。

《フォレスト・ガンプ 一期一会》 1994年/米
トム・ハンクス/サリー・フィールド/主演 ロバート・ゼメキズ監督 
知能指数は低いがピュアな心を持つフォレスト・ガンプ。
ベトナム戦争など、アメリカの現代史を駆け抜けた主人公の半生をテンポよく描く。
さりげなくSFXもあり。87回アカデミー作品賞を受賞。

この映画のもう一つの楽しみは全編に流れる音楽。
ボブ・ディランの"風に吹かれて"など、全32曲のフォークやロックが流れる。
また、フォーレストの生きた時代の実写場面もみもの。

《レオン》 1996年/米・仏
ジャン・レノ/ナタリー・ポートマン/主演 リュック・ベッソン監督 
孤独な殺し屋と12歳の少女の純愛。
掃除屋J・レノの男の美学、少女とのつかの間の愛が切ない。

完全版は劇場版に22分を足して再編集。
フランスでは脇役専門のJ・レノが、これでハリウッド進出を果たした第1作。
日本人は、なぜ彼が好きなのだろうか? レオン...のせいか?

《タクシー・ドライバー》 1976年/米
ロバート・デニーロ/ジョディ・フォスター/主演 マーチン・スコッセン監督 
夜のニューヨークの町中を流すタクシー・ドライバーは、大都会の裏側に怒りを覚える。
そして、大統領候補の暗殺を企てた。

弱冠13歳のJ・フォスターが娼婦屋役で出演し、タダモノでない演技で魅せる。
昨年は「フライトプラン」に円熟の主演。。彼女の全作品はこちら。

《真夜中のカーボーイ》 1969年/米
ダスティン・ホフマン/ジョン・ボイト/主演 ジョン・シュレシンジャー監督
テキサスから一旗揚げようとニューヨークにやってきた男と、足の不自由な男の友情。
アメリカン・ニューシネマと呼ばれ、その時代の若者の孤独感を見事に描く。

ダスティンが足をちょっと引きずって歩く姿が印象的。
「卒業」から「パピヨン」。けっしてカッコよくはないガ、ダスティンも好き。

《明日に向かって撃て》 1969年/米
ロバート・レッドフォード/ポール・ニューマン/主演 ジョージ・R・ヒル/監督 
お尋ね者のブッチとサンダスは列車強盗を成功させる。
賞金目当ての追跡団に追われ、ついに南米ボリビアにたどり着く。
ラストシーンはお涙モノ。

バート・バカラックの音楽がいい。
それで、レッドフォードとポール・ニューマンの悪党ときたら...
太く短く、かっこよく生きるのもいいかな...と思ってしまった。

そのほかにもお気に入りはいっぱい。
「ドライビングMISSディジー」「ダンス・ウイズ・ウルブス」「チャンス」
「グランマスクの男」などなど、好きな作品はいっぱい。
何の気なしに観た映画が、思いがけなく心をうったとき、得をした気持ちになるねぇ。

いやぁ、映画って、ホントに愉しいですねえ。
(水野さん、ワタシもそう思ってます)

■今日のみーつけ
映画音楽 MIDI
ニュー・シネマ・パラダイスほかの曲を聴くことができます。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
16:44 | 映画のはなし | edit | page top↑
Sun.

60’名曲に彩られた映画

60年代の、あのメロディーが聞こえてくる。
あの頃は、映画の主題曲がヒットチャートの上位を占めたものだった。

例の三畳間、蛞蝓でてきそうな万年床、
冷たい布団にくるまって、深夜のラジオから流れるこれらの曲を聞いていた。

《第三の男》のチターの音色。《禁じられた遊び》はギターを手にすれば必ず弾く。
《道》のジェルソミーナ、あの哀愁のこもったメロディ。

《真昼の決闘》のハイ・ヌーン。《シエーン》の遥かなる呼び声。
《大砂塵》のジャニーギター。《アラモ》の遥かなるアラモ。

モダンジャズの《地下室のメロディー》。《前進か死か》のさすらいのマーチ。
《夕焼けの戦場》の夕焼けのトランペット。などなど...いろいろ。

《ウエスト・サイド物語》のサントラ盤は、いまでもときどき聞く。
指を鳴らして出てくるプロローグからジエット・ソング、切々歌うトゥ・ナイト。

《駅馬車》 ジョン・ウェイン/主演 ジョン・フォード/監督 (1940年)
アパッチの襲撃を受けた駅馬車が荒野を疾走する。ただただ走る。
この迫力は半世紀前の作品とは思えない。いろいろな意味で不朽の名作。
若き日のジョン・ウェインが粗削りな演技ながら魅せる。
テーマ曲は後の西部劇に影響大。


△West Side Story - Prologue(1961)

《ライム・ライト》チャールズ・チャップリン/監督、脚本、音楽、主演 (1953年)
自殺しようとした美少女テリーとうらぶれた道化師。
テリーがもう一度晴れ舞台を踏んだ日、道化師カルヴェロは去って行く。
名曲『テリーのテーマ』はいまも耳に残る。哀しげなチャップリンの顔とともに。
ほら、これを読んだあなた、あたまの中で...

《エデンの東》ジェイムス・ディーン/主演 エリア・カザン監督 (1955年)
若くして逝ってしまった、ジェイムス・ディーン。
「ジャイアンツ」までの数少ない出演作のなかで、私は「エデン...」が一番好き。
厳格な父親に反抗するキャルに、わが姿を重ねていたかも。
私がジーンズ(直輸入しかなかった)をはきはじめたきっかけが、これだった。

《戦場にかける橋》 アレック・ギネス/早川雪洲/主演 D・リーン/監督 (1957年)
泰緬鉄道を建設する日本軍は、英軍捕虜を使ってクワイ川に橋を架ける。
雪洲の武士道、ギネスの誇りの凌ぎあい。
口笛を吹いて行進する英軍捕虜のシーンが印象的。変に誇張した日本感がない。
50年以上前の作とは思えない傑作だと思う。

《刑事》ピエトロ・ジェルミ/主演・監督 (1959年)
映画は、この作品の3年前の《鉄道員》と同じようなジェルミの世界。
♪アモーレ・ミオの主題歌は大ヒット。音楽担当のカルロ・ルスティケリの娘が歌う。
ジェルミおじさんの哀愁が、たまらなくいい。

《OK牧場の決闘》カーク・ダグラス/主演 ジョン・スージェイス/監督 (1957年)
荒野の決闘と同じストーリーだが、ドクホリデーを演ずるカーク・ダグラスが好き。
フランキー・レインのテーマソングが好き。この作品も何度も繰り返し観ている。
この映画のリメークは、ドクをどう描くかで決まる。ガッツ石松?

《太陽がいっぱい》アラン・ドロン/主演 ルネ・グレマン監督 (1960年)
若き日のアラン・ドロンが素敵。
金持ちの友人を連れ戻しにいったリブレーは、大胆不敵な完全犯罪を企てる。
最後にどんでん返し。テーマ曲も大ヒットした。

《シェルブールの雨傘》カトリーヌ・ドヌーブ/主演 J・ルグラン/監督 (1964年)
ドヌちゃんが可憐、可愛い。いまも美しくお年を召していらっしゃる。
アルジェリア戦線へ招集された彼を待つ可憐な少女は妊娠していた。
そして、4年後のX'masに雪のガソリンスタンドで再会する。ミュージカル仕立て。

《ブーベの恋人》クラウディア・カルデナーレ/主演 R・コメンチーニ/監督 (1964年)
カルデナーレのお相手は、若き日のジョージ・チャキリス。かっこいいチャキリス。
映画の印象よりも、カルロス・ルスティケリの曲が印象に残る。
「刑事」「鉄道員」など、この人の曲は泣き節といわれた。

《荒野の用心棒》クリント・イーストウッド/主演 B・ロバートソン/監督 (1965年)
マカロニウエスタン時代のイーストウッドはニヒルでよかった。
《さすらいの口笛》はエンリコ・モリコーネの作品。
マディソン郡の橋...を観ても、あの口笛が鳴って困る。

いやぁ、映画って愉しいですね。
(水野さん、パクリでごめんなさい)

■今日のみーつけ
cinemaIN/映画音楽集
こちらへいけば、ほとんどの曲を聴くことができます。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
16:13 | 映画のはなし | edit | page top↑
Sun.

さくら、さくら...

前の1週間は1位を張って、ある日から突然に転落の坂道まっしぐら。
まぁ、よくわからんうちに、「ぶろぐ村ランキング復活」ではあります。
(ぶろぐ村スタッフのかたに感謝)

で、調べモノ、して文章書いている暇がないので、第1回花見...の報告。
いやぁ、いっぺんに春でございます。ええ、バッチ脱ぎました。

c8e0d5af1e1fa3b89f0c217278f0ffa0.jpg

新聞2紙に、カタクリノハナが...なんて記事がでて、
その公園にカメ友とでかけたのだが、駐車場に、いた、いた、いた。

おじさんカメラマン、おばさまカメラマンが、
デジ一眼、首から下げて...あっちにもこっちにもスタンバッているのでした。

私の特技は、そのような方に声をかけてなかよくなってしまうことでありまして、
あちら様も談笑してくださるので、迷惑はかけていないと勝手に思っております。

しばし、花を撮りながら、出会いを楽しみつつ、
それでもシャッターを180回ほど切ったのでありました。

三方原台地から天竜川の創った平野を見下ろす崖の中腹に古刹不動寺です。
静岡県の県花である"つつじ"が見事に咲いております。

125671498b10c983b1e60056da6898ea.jpg

そう、桜は5分咲き。あと3日で満開といったところでしょうか
で、昨夜は深夜までかかって、Web site Galleryをアップさせました。

もっと見てくださる...というご奇特なかた、こちらでございます。
ありがとうございます、はい。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!

16:08 | 季節の推移 | edit | page top↑
Sat.

レナウン娘がワンサカ...

♪ドライブウェイに春がくりゃ、イェイェイェィ、レナウン娘がワンサカ、ワンサカ...
数多のCMソングを世に出した小林亜星さんのデビュー作品なんだってね。

これが、1972年(昭和47年)だった。
このあとのオイルショックも知らずに、世間みんな、なんとなく浮かれた。

64-f62_20080303131742.jpg

Oh" モーレツ...がそのころかと思ったら1969年。
最近、菊川玲がリバイバルしたけれど、やっぱし、モーレツ娘は小川ローザだろ。

で、1973年はキャンディーズのデビューということ...
今日のBGMは、♪ちょっと気取ってみませんか...というわけで、こちら様。

春一番という芸人さん、最近見なくなった。そのかわり、長州小力が活躍。
あの、アントニオ猪木が引退のときの...

 この道をいけばどうなるものか 
 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし
 踏み出せばその一歩が道となり 
 その一足が道となる 迷わず行けよ 
 行けばわかるさ

 引退リング←を画像で観ますか?

一休宗純の言葉なんだね、つまり、いっきゅぅぅぅさん。
引退のリングで、これを言い出したときは、違和感いっぱいだったけれど。

69年の小川ローザぱんちらCMは丸善石油で、
それに対抗してか、71年のモービルは「のんびり行こうよ」。

のんびり行こうよ...と、野原の真ん中の道を車を押していく。
鈴木ヒロミツの歌が妙にマッチしていて、モーレツ時代の中で新鮮だった。

♪today Link
矢野顕子オフィシャルサイトリンク切れ/08.03.03確認)
PSE法反対ニュースで坂本龍一さんをみかけたので、そのころ奥さんやってた...

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
13:06 | 芸能レジャーの話題 | edit | page top↑
Fri.

ああ、シャボン玉ホリデー

作曲家の宮川泰さんが冥界へ旅発たれた。
私達の一つ上の世代の先輩方、ひとつの文化を創りあげた方々が旅路を急がれる。
ただただ哀しい。

宮川さんといえば「シャボン玉ホリデー」なわけで...
ほら聞こえてくるでしょう、♪スターダストが。

ギター演奏MIDIはバッチリ保存してあるけれど、JASRACK未登録でございまして...
こちら様のピアノ演奏でどうぞ。

あの「シャボン玉ホリデー」というバラエティ元祖のような番組。
1961〜1972年まで591回も続いたという。全記録も、また凄いねぇ。



エンディングで,♪スターダストが流れ、ザ・ピーナツのお2人にハナ肇さんが絡む。
ヒジテツくらってハナさんがニッと歯を出す。

おとっつぁん、お粥ができたよ。いつもすまないねぇ..とか。
およびでない、およびでない、こらまた失礼いたしましたっ...とか。

この"全記録"を見て驚く。そのほとんどの音楽担当が宮川さんだった。
前田憲男さん、服部克久さんの名前も見える。

それから、もう一つ構成作家。
マエタケこと前田武彦さん、元東京都知事イヂワルバァサン青島幸男さん。

ゲストには、渡辺プロダクジョンの全盛期スターがずらり。
12年間の芸能史がうかがいしれて面白い。

cabca77d65bfa1f51ad6df94439c6e3a.jpg
 ▲ありました押入の奥に/カミさんが買ったシングル

1961〜1972年は、高度成長の時期。
その当時は、なりたいモノがみつからないなどと、いってる暇はない。

とりあえず、私もサラリーマンをやったわけだけれど、
給料は10年間で10倍になったし、「消費は美徳なり」と金を使うことも謳歌した。

あの時代から、日本人のなにかが変わってきたのは否定できないだろう。
豊かさとなにかを交換したのか、あるいは、これが日本人の本来の姿なのか。

汽笛一声新橋を早わが汽車は離れたり...は明治5年。
ご維新からたった5年で、洋服を着た日本人が汽車に乗る。この変わり身の早さ。

ほしがりません勝つまでは...で敗戦を経験しても、すぐに立ち直った。
もはや戦後ではないといい始めたと思ったら、所得倍増であった。

節目、節目の変わり身の早さ、けろっと順応出来る国民性。
そのために過去をかなぐり捨て、曖昧にしておいて先を急いできた。

けれども、それはこの国だけじゃない。
歴史を創り換える国があるし、常に地球の中心だと思い込んでいる国もある。

私は、戦後のひもじさも、それほど記憶にない年代。
この国が有頂天になって突き進んでいった時代に生きた幸せを、謳歌した年代。

その時代を象徴したTV番組がシャボン玉ホリデーだった。
宮川泰さんのご冥福をお祈りしたい。

■今日のみーつけ
ふくちゃんの音楽室/日本のフォーク
あの頃の学生はもっと苦悩した/初期のフォークソングにはメッセージが...

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
12:59 | 芸能レジャーの話題 | edit | page top↑
Thu.

ロマンポルノといわれ2映画(1)

次にGombessa的/ロマンポルノ・ベスト10をあげておく。

1)「女猫」 主演/早乙女愛(1983年)
「愛と誠」の清純派スターが豊満な裸体を見せた。これは衝撃だった。スートリーはレスビアンものだが、若き岩城晃一との絡みもある。早乙女愛は私のアイドルでもあったから1位。監督は、かの山城新伍。

2)「ラブレター」 主演/関根恵子(1981年)
現・高橋恵子は大映時代の青春ものでも、惜しげなく裸身をみせていたが、成熟した彼女の濡れ場シーンは貴重。詩人・金子光晴が愛人に宛てたラブレターをストーリー化している。

3)「後ろから前から」 主演/畑中葉子(1980年)
平尾昌晃とのヒット曲、「カナダからの手紙」でアイドルとなった畑中葉子。離婚を経て衝撃のデビュー。配給収入3億円の大ヒット。「ひまわり娘」の伊東咲子や、中村晃子もこの作品に前後して出演。アイドル伊東咲子には衝撃があったが、中村晃子はそれほどではなかった。(ごめん)

4)「軽井沢夫人」 主演/高田美和(1982年)
往年の大スター高田浩吉の娘にして、歌舞伎役者・片岡秀太郎の妻(当時)が脱いだ。これが話題にならないわけがない。五月みどりの「かまきり夫人」とは趣が違う。森の中のなかなか...な裸身が眩しい。


 △Emmanuelle

5)「団地妻・昼下がりの情事」 主演/白川和子(1971年)
団地妻という言葉を世間に認知させたシリーズ第1作。ロマンポルノを語るとき、これを入れない訳にはいかない名作だ。片桐夕子、宮園順子が後に続く。白川和子はポルノ女優の先駆者として立派に後輩への道を拓いた。

6)「女教師」 主演/永嶋暎子(1977年)
AV。Vシネマにまで引き継がれた「女教師」ものの第1作。「団地妻」と同じく、そういう意味での記念碑的作品。永嶋暎子は東宝「悪魔の手鞠歌」のあとに出演している。

7)「団鬼六・縄と肌」 主演/谷ナオミ(1977年)
SMの女王・谷ナオミの引退作品。私の嗜好の範疇ではないが、一つの時代を作った名作。彼女は72年の「しなやかな獣たち」がデビュー作だった。

8)「闇に抱かれて」 主演/風祭ゆき(1982年)
当時のキャッチフレーズがポルノ界の松坂慶子であった。それだけ美形。離婚などという経過を経ず、ロマンポルノがスターを生む時代になっていた。この後、ロマンポルノから本編映画女優へが普通になっていく。

9)「ピンクのカーテン」 主演/美保純(1982年)
静岡県出身の彼女の作品を入れておこう。隣のお姉さんというフレーズが流行り始めた。まさに、どこにでもいる健康的な娘であった。彼女はこれでチャンスを掴み、本格的女優に成長する。はちきれんばかりの裸身である。

10)「人妻暴行・マンション」 主演/渡辺良子(1985年) 
団地というネーミングがマンションに…。ストーリーもDVを扱って社会性をもたせている。この時代は一般映画にも裸身が溢れ、いわゆるロマンポルノが一つの時代を終える。と、ともに「にっかつ」も終わった。

(Gombessa/Web site Gombessa RoomのContentsより転載)

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!

12:41 | 映画のはなし | edit | page top↑
Wed.

ロマンポルノという映画(1)

いわゆる「にっかつロマンポルノ」は1971年にスタートしている。テレビがお茶の間に普及したのが、東京オリンピック(1964年/昭和39年)だったとすれば、それほどの年月が経ってはいない。

裕次郎は独立プロダクションを作り、三船プロなどと盛んに大作を世に送り始めた。テレビにも銀幕のスターが次々と姿をみせ、映画は斜陽の坂道を転げ落ちていったのだ。やがては、大映、日活が映画製作を打ち切ることになり、邦画は斜陽の道をたどり始めた。

 日活が「にっかつ」と社名を変え、ロマンポルノを制作しはじめたのは、その映画苦難の時代を物語っている。戦後、労働争議によって「東宝」から分かれ、意欲作を世に送り出した「新東宝」は、「大蔵映画」「国映」となり、独特アイデアのピンク映画をすでに作っていた。「東映」は時代劇から抗争モノに転換し、他社をしのぐ収益を上げていた。

そんななかで、「にっかつロマンポルノ」は誕生する。初期の「団地妻シリーズ」では、山本晋也監督がデビューしているし、他にも若手監督が何人も巣立っていった。つまり、初期は自由な気風が残り、実験的な映画作りの出来るのが若手監督には魅力だったのだろう。

2002年、30周年記念のイベントがあった。当時としては考えられない若い女性が、その映写会の半数を占めたのだ。女性がこの手の映画に足を運んだのは、シルビア・クリスタルの「エマニエル夫人」だけだった。それから20年が経過して、にっかつロマンポルノはかくも市民権を得たのだ。

中盤から終盤にかけてのロマンポルノには話題性があった。清純派として存在した早乙女愛が豊満な胸を晒してレズシーンを演じた。お姫様役で売り出し、梨園に嫁いだ高田美和が惜しげもなく脱いだり、アイドル歌手の畑中葉子が後ろから前から...を演じた。

印刷物でのヘア解禁の時、私は感じた。エロチシズムはすべてを晒けだすものではない。欲望は抑圧されるから昂揚するのであり、やがてはチラリズムに回帰するはずだと。日本という国は性にはおおらかであり、独特の秩序をもって性文化を築いてきた国だ。この民族は、それなりの性に対する感性を持っていたのである。

いま、アダルトビデオが全盛であり、アダルトサイトが乱立している。大人の日本人の感性は、それに飽きつつあり、本来の感覚に戻りつつあるのではないか。そこに青春の日、心と体を癒してくれたスター達が裸身を晒してくれるのだ。甘酸っぱい想い出がその画面に重なって、オジさん達は胸を熱くするのである。

当時、清純派アイドルがロマンポルノに出演することは、アイドルタレントがヘア写真集を出すのとは訳がちがう。まさに衝撃だったのだ。だからこそ、「にっかつ」は13年も映画会社として存続したのだろう。が、映画の主流は依然として斜陽であり、裕次郎最盛期の力を取り戻す事はできなかった。けれども、金は掛けていたのだ。乱発するAVやVシネマとの決定的な違いがここにある。

最近、深夜のデジタルBSでロマンポルノの放送が多い。一つの興味として男優の若き日の姿がの発見が面白い。あらっ…というような人が、一生懸命に腰を振っているのは単純に面白い。ま、興味本位で申し訳ない。

映画が斜陽になっていくなかで、ロマンポルノは、はからずも1つの映画文化を創ったといえよう。いま、いわゆる本編映画とロマンポルノの垣根は消滅している。会社存続のため、低俗といわれながらも13年間も作り続ければ文化を生み出す。昨今のAVを女優の登竜門と考える時代を生み出したのだ。白川和子が苦労したのも、決して無駄になってはいない。

映画好きGombessaはピンクもロマンポルノも映画として観ていた。3番館の3本立てを自分のフレームで観ていたのだ。いま、改めて観てみると、当時の感性が蘇る。エロティシズムを通して「映画」を創った当時の映画人の熱気が伝わる。山本晋也監督はただのリポーター親父ではない。その狼煙を上げた1人なのである。

ea732b45aea734e6049e5b6727d289c8.jpg 明日へ続く...

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!

12:37 | 映画のはなし | edit | page top↑
Tue.

マリリンの死...

ずっと前、某巨大掲示板でこれを知り、好奇心の塊の私はDLを試みた。
が、マシンがMacで、幸か不幸か蚊帳の外。
しばらく忘れていると、例の「ウイルス/欄検眼段」で某庁職員の閨房写真が流出。
どんなもんかいな...と、好奇心の塊ごんべは裏道を通って見にいった。

あれが、半永久的に世界のインターネットに流れるのである。
何とも迂闊なことか、あな、おそろしや。
最大の防御は簡単で。自分のパソコンにWinyを入れなければいい。
触らぬWinyに祟りなし、触るなら、それだけの対応して触れ...ということ。

私はインターネットを始めて、8年目になる。
いま、3つのメルアドを使いわけているが、最初から使っているアドレスはもう大変。
どこでどうなったか、無防備の時代もあったので、これが迷惑メールにまみれている。
プロバイダが削除してくれるが、それをかいくぐったモノを5通くらい毎日削除する。

それはもう巧妙なあの手この手で攻め続けられ、
おかげさまで、私の脳味噌の老化防止にかなり役立っている。ありがたいこっちゃ。
つい、うっかり開いたものなら3日ほどして、新たなスパムがどっと押しよせる。
スパイソフトが埋め込まれていて、一旦リストへ載ったら、アド換えたほうがいい。

出合い系の...カネ前金で振り込むから逢ってくれという逆支援。
常識で考えても、こんな、オイシイ話があるわけはない。
会員になって1回くらいは連絡が撮れるらしい。追加金払わないとナシのつぶて。
これも、スケベゴコロしまっといて、触らぬ神に祟りなし。

今朝も、差出人はyahoo管理者。
あるコンテンツが未登録だから、下のアドレスから入れてくれ...という。
それは事実だから、登録しとこうかと、マウス握ったときにひらめいた。
yahooの連絡がyahoo登録でないアドレスにくるわけがない。

もう、インターネットの世界、生き馬の目を抜く。
油断も隙もあったものではなく、まず疑ってかかれ...という哀しい世界。
人を疑ってかかれ、というのも哀しいけれど、
どちら様も、ご注意のほどを !!



1963年11月22日の早朝、私はある定食屋で飯を食っていた。
すると、テレビの前に集まっていた客の間から驚きの声があがった。
たしか、あの日はアメリカから初の衛星中継だった。
その電波にのって届いたのは、「ケネディー大統領暗殺される」という下手な日本字。

それは、「なんかおかしいぞ、アメリカ」の発端でもあった。
そのケネディーに、♪ハッピィバースディ・トゥ・プレジデントと歌いかけたマリリン。
マリリン・モンローはJFKの暗殺の前年の1962年8月5日、
シャネル#5だけの姿で息絶えているのが発見された。

モンローとケネディー家との間になにかがあったらしいことは、その後に出てきた。
ケネディー暗殺の詳細は2036年に発表されるそうだ。
さて、マリリン。
ノーマ・ジーン・モ−テンセンが幸せになる手段として選んだ女優という職業。

その生い立ちもあるけれど、
いつでも、真剣に、せつなくなるほどに、幸せを追い求めた女(ひと)だったと思う。
ジョーデマジオとの新婚旅行で日本へきたときのことは記憶にある。
その幸せも、それほど長くは続かなかった。

女優としては、「ナイアガラ」では、まだ初々しかったが、
「帰らざる河」「七年目の浮気」、そして「バス停留所」で本格派として認められる。
私は「バス停留所」がいちばん好き。
女優マリリンが、さあ、いまから花開いて輝くわよ..という華やかさがある。

逆に、16歳で「オズの魔法使い」の主役をはったのがジュディ・ガーランド
彼女は、後年、ドラッグや酒に溺れて輝きを失った。
マリリンの没後44年になるとか。存命ならばちょうど80歳。
が、36歳の輝いたままで、人々の記憶に残っている。それがいい。

もう一人、好きだったオードリー・ヘップバーン
晩年はユニセフのチャリティーで活躍、皺は刻まれていたが、
それはそれで、とても美しかった。

■今日のみーつけ
ふくちゃんの音楽教室
フォークのMIDIを聴きにお邪魔します/膨大なデータです。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
12:17 | 映画のはなし | edit | page top↑
Mon.

チャップリンの若白髪

チャーリー・チャップリンが大好きである。
ここ数年の歳月で、日本人の金髪がさほど珍しくはなくなった。
風俗というものは、歳月がなにごともなかったかのように馴染ませるものである。

いなせ...という言葉がある。 いまでいったらカッコイイ若者...といったところか。
これは、江戸の若い衆の流行りで、魚のイナの背に似た髷だったことからだそうな。

いまのわけぇもんは...この台詞は江戸の昔からあったといい、
いつの世も、若者が古きしきたりを破り、新しい文化が生まれてきたのである。

久世光彦さんが惜しくも亡くなり、いくつかのドラマのさわりが放映された。
「おっかみーさん、じっかんですよ」と叫ぶマチャアキの長髪もいまみれば異様だ。

私だって、あれにちかい長さだったんだから。それが時代というものなんだね。
中学生のころになるのか、ロマンスグレーという言葉が流行った。

「48歳の抵抗」という小説が話題となり、ああ、男はそのへんで黄昏れるのか...と。
その時の観念だと、50歳を目前にして男が最後のあがきを...というような。

けれども、それを遙かに通り越して、そのまた長寿社会になってみると、
すくなくても、いまの時代の男の黄昏は、当時より10歳はズレてきているはず。



チャップリンは38歳で白髪になったという。 その原因は、こういうこと だったらしい。
偉大なる映画人というイメージが崩れ、知らなきゃよかったと思う。

が、一方では、さもあらん...と納得する部分もなきにしもあらず。
狂気とは紙一重であるからだし、天才は常ならん性癖を持っているものではある。

すべては、彼のロリコン趣味に発した...というけれど。
○○ラ...という言葉を世の中に出したのはチャップリンだった。21ヘェェ...くらいか。

「ライムライト」は何度も何度も、繰り返し繰り返し観ている。
映画館で観たのは72年のリバイバルが初めてだったのかもしれない。

戦中のアメリカは赤狩りが熾烈を極めた。つまり、マッカシー旋風である。
共産主義者は、自由の国アメリカらしからぬ迫害をうけている。

第二次大戦のあとで、アメリカは共産主義が広がることをおそれ、
マッカーシー上院議員をリーダーとする非米活動調査委員会の弾圧がエスカレートした。

同じ映画人による裏切りと密告を含め、映画界でも共産主義者排除は熾烈を極めた。
ブラックリストに上がった映画人は320名余だったという。

「...独裁者」から「...の殺人狂時代」
これらの作品を通じて、非米活動委員会に追窮されるチャップリン。

マッカーシ委員会の糾弾は厳しく、チャップリンは国外に追放される。
やがては、アメリカを捨て、母国イギリスに戻る。

そこで発表した作品が「ライムライト」だった。
老いた道化師と美しいバレリーナとの秘めたる恋。

何度観ても、私...の心には「テリーのテーマ」がしみわたる。
最近は、涙腺がゆるんできたから、ちょっとヤバイ...状態になってくる。

■今日のみーつけ
Staram MIDI
ここのサイドメニューから映画音楽へ入ってください。
ピアノ演奏の「テリーのテーマ」は、かなりイイ...です。
舞台で踊るテリー、ベッドに臥す道化師カルベロ..の姿が浮かんできます。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
12:13 | 映画のはなし | edit | page top↑
Sun.

宍戸錠の居場所

初期の日活は、戦前の文芸路線の轍を踏んでいて、真面目にその手の映画を創った。
新劇人の手を借りることにより、いくつかの名作がこの時代に残されている。
やがて、これは「キューポラのある街」「にあんちゃん」という社会派映画や、
裕次郎の人気を借りた石坂洋次郎原作もの…の青春映画へと変化していく。

「警察日記」は、二木てるみの好演で評判を博し、
前年デビューの宍戸錠は若い巡査を演じ、爽やかな印象を残した。
が、ニューフェイスで出てきた美青年は、やがて台頭する「日活映画」に埋没する。

長門裕之、南田洋子の「太陽の季節」は石原慎太郎の芥川賞受賞作の映画化でヒット。
太陽族の名とともに「狂った果実」で石原裕次郎がデビューし、
松竹から移籍した後の夫人、北原三枝とで、その後の日活路線を決定づけた。
私は中学生であった。2番館の板壁に張り付いてこれらの映画を観ていた。

裕次郎人気は、青春ものが得意の松竹でさえ、対抗するスターを生みだせなかった。
ヌーベルバーグという名のもとに大島渚監督を世に出したぐらい…のものであった。
文芸路線でスタートした裕次郎映画は、やがてアクション路線へと変遷していく。

石原裕次郎に対抗して、小林旭、赤城圭一郎などがスターの座に着き、
無国籍映画と云われた「渡り鳥シリーズ」が、生み出された。日活の最盛期への胎動だ。
そんななかで、美青年ゆえに居場所をなくしていったのが宍戸錠である。

しかしながら、警察日記で爽やかな巡査を演じていた宍戸錠は変身した。
オルガノーゲンという物質を頬に注入し、エースの錠…として再生する。
旭や圭一郎に絡み、膨らませた頬の前で拳銃を振り、チッ、チッ、チッと舌を鳴らす。

「拳銃はおれのパスポート」
殺し屋なのだが、最後は善玉になるキャラクター。
アクションものを乱発する日活にとっては欠かせない存在となった。
自らの顔に大量のオルガノーゲンという物質を入れて、
宍戸錠は「エースの錠」という居場所を見つけたのである。
頬を膨らませることで虚構の人格を演じ、そのなかに埋没していく。

a306a51c71a5dce94ba6fb1cf7b50de6.jpg
 ▲マンボの王様/ペレス・ブラードのライブLP盤)

なにが映画を衰退させたのか。
茶の間で観られるテレビの普及だという。それも一面には違いない。
が、まだまだ、映画館は人で溢れていたのである。

日活の無国籍映画は東映の任侠路線に押され、なおかつ、抗争路線にとって代わられた。
高倉健、松方弘樹の前にエースの錠は不要だったのだ。
同じ場所にいたのは金子信雄であり、成田三樹夫であった。
無国籍映画のように最後に善玉になるキャラは要らない。悪は徹底して悪であればいい。

裕次郎はプロダクションを作って大作に走る。
日活は方向を見失い、最後のあがきとして、ロマンポルノを世に出す。
これはこれで、映画文化の一つとしての存在価値はあった。
「団地妻シリーズ」の山本晋也をはじめ、ユニークな監督を輩出している。
ロマンポルノが、時代を経てもなお、もてはやされるのは、新人監督の思いを、
ポルノという中途半端な素材ではあったが、満たす事のできる場であったからだ。

テレビの功罪は、雲の上のスターを茶の間に下ろした事にあるのではないか。
銀幕でしか得られなかった夢が炬燵の中で観られるようになった。
スターたちは、こぞって仮面を取り、庶民派を装ってブラウン管に出た。
迎合しなかったのは、高倉健、吉永小百合…など、ほんの少しのスターたちだけだった。

いま、健さんの、小百合さんの映画界における存在をみるがいい。
毅然としてスターの存在を貫き、映画の残り火を燃やし続けている。
テレビに走ったスターたち、それを許した映画界は自ら瓦解したのではないか。

何年か前...顔を包帯で包んだ宍戸錠がブラウン管の中にあった。
40年ぶりに頬のオルガノーゲンを除去したのだ。
奥さんが現れて、その包帯を取る瞬間を見たくない…という。演出かもしれない。

が、彼女にとって、
これまでの伴侶は「エースの錠」であり、頬にオルガノーゲンの入った夫であった。
さらに、エースの錠…という虚構の中で暮らしてきた何十年間であった。
いまさら...という気持ちは分からないでもない。

やがて、盛り上げの時間が過ぎて包帯が取られた。
そこには、警察日記のままの宍戸錠が若干の老いを加えて座っていた。
オルガノーゲンとともに、エースの錠を捨てた宍戸錠…であった。

■今日のみーつけ
♪ なつメロ英語 ←とにかく行ってみてください/歌つきMIDIです。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!

11:49 | 映画のはなし | edit | page top↑
Sat.

なんだ。こりゃ...

それで、昨日は久しぶりにベンチャーズのCDをパソコンに放り込み、
BGMにしながらホームページの改装などしていた。

で、エレキギターとくれば、加山雄三だよな...と突然と思ったわけ。
あった、あった。加山雄三はたった一枚。

340e8e78ef5ffffe7c591e2a63cd635c.jpg

▲80年代にレコード蚤の市で購入)

加山雄三といえば「若大将シリーズ」なんだけれど、
東宝のドル箱で昭和36〜56年まで18本が製作されたんだってね。

これだけが目的で映画館にいったことはない。
眠るために入ったオールナイトで観たとか、深夜のテレビ映画でみたとか。

釣りにいく途中の西伊豆堂ヶ島に何か出来たなと思ったら、
「加山雄三ミュージアム」だったんだね。ついでに、「加山雄三LPジャケット集」も。

三畳間の下宿で座机のなかに足つっこんで万年床に寝ていた私には、
ええとこのぼんぼんが大学でどうした的映画を、リアルで観る気がなかったけれど。

私自身は、ぼんぼんなれのはてのちょい世の中すねお君だったから。
ぬるま湯のようなドラマは尻がムズムズこそばゆくてじっとしてはいられなかった。

あのころのあなたは優作のような目をしていた...
カミさんが、そういったけれど、ま、若気の至りのあれこれは...省略。

というわけで、松田優作が好き。
けっしていい男じゃないけれど、あの時代、ほかに類のない俳優だったと思う。

「蘇る松田優作」 ←ときどきここに行く。
ジーパン刑事の殉死シーン「なんじゃこりゃ...」はここでどうぞ!! (注意:音が出ます)

映画での遺作は「ブラックレイン」になるのだけれど、
体を蝕んだ癌は末期にはいっていて、1989年11月6日に39歳で返らぬ人となった。

藪から棒だけど、私はスチーブ・マックィーンの最期とダブルんだね。
遺作は「ハンター」。1980年、まだ50歳で肺癌で逝ってしまった。

優作、マックィーン、私の好きな俳優だったけれど、
遺作は2人ともに痛み止めをうちながらの壮絶な撮影であったようだ。

マックィーンは、やっぱり「大脱走」かな。
草原をオートバイで走りまわり、鉄条網に引っかかってニヤリと笑う顔が浮かぶね。

手持ちのビデオテープはすり切れてノイズが出る。それくらい観た。
「大脱走」の公開が1963年だった。最初は名画座で観たはず。

ジェームズ・ガーナー リチャード・アッテンボロー チャールズ・ブロンソン
あの映画の顔ぶれは、映画マニアにはけっこうたまらない。

実は、私は映画を語りはじめるとキリがない人。
明日のネタがなくなるといけないので、このへんで。

■今日のみつーけ
【映画音楽集】
凄いです。映画ファンにはたまらないSiteです。映画音楽いっぱい。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
11:13 | 映画のはなし | edit | page top↑
Fri.

ミニスカはいてた?

娘の娘が遊びにきて、何のはずみかアルバムをひろげた。
で、そこにミニスカートはいたカミさん見つけて、これ誰?

カミさんも、赤ちゃんこをついこの間超えたわけだけれど、
これが、信じられないことに、膝小僧丸出しのミニスカートはいてたんだなぁ。

いうなれば、団塊世代の女性たちは、偉大なるミニスカートの先駆者だったのだ。
いまは、諸般の事情で、いたしかたなく長めをはいていらっしゃるけれど。

下の写真は、1964年の東京モーターショー。
車の横でにっこり笑うオネーサンの膝はしかりと隠れていた。

dee75fa2448e3e6fa79ee788255f1faf.jpg

うろ憶えの女性ファッションの記憶たどってみると、
たしか、小枝ちゃん...といわれたツイッギーの来日がミニスカ元年ではないかと。

で、ググってちょっとたぐったら...
【ツイッギー・オフィシャル・サイト】を見つけた。
そういえば、去年か一昨年の、"あの人はいま的番組"で観たような気がする。

ミニスカブームの発端は、1967年(昭和42年)。
10月18日、細い足を短いスカートから出したツイッギーの来日だ...といわれる。

この10月18日は「ミニスカートの日」なんだってね。これは知らなかった。
ミニスカの考案者は、ロンドンのファッションデザイナー、マリー・クワント。

1959年、それまでのファッション界の常識を破った画期的なミニスカートを発表、
どんどんスカート丈は短くなり、ツイッギー来日の翌年には、なんと膝上30cm。

私自身はと思い出してみると、ヘアースタイルから靴までアイビーで固めてた。
「平凡パンチ表紙イラスト/大橋歩」
↑これだったね。いまでもシャツは"ボタンダウン"だけしか着ないんだけど。

 リンクが切れていたのでこちらでどうぞ。
 最上段/左端こんなカッコしてまして闊歩してました。(/07.05.28追記)

私のなかでは、"プレイボーイ"ではなく"平凡パンチ"...だった。
それは大橋歩さんの表紙イラストだったのは間違いない。

VAN 平凡パンチ、まさに私の青春。
別に、みゆき族だったわけではないけれど。

ファッションを創るつもりはない。
風俗を創りあげるのだ...と、昨年旅発たれた石津さんはいった。

風俗、よからぬ場所じゃないよ。
ひとつの時代の文化のこと...だと思う。

ちらちらと、そのアイビーの向こうに自由なアメリカが見える。
オジサンたちはその雰囲気に酔い謳歌した。オバサンたちもマクロミニで闊歩した。

373035717deffc93550b7007b088dddc.jpg
 ▲もちろんLP盤(ライブ録音)3枚もってます

風俗をつくる一員になりたい。
そう思って、私も奮起するのだけれど、若気の至りのあれこれは...省略。

あの有頂天になって突き進んでいった時代に生きた幸せを、いまでも感じる。
私も、夢に向かえる業界に自分の居場所を見つけ、愉しくてしかたない毎日だった。

■今日のみつーけ
【懐かしさを遊ぼう】
懐かしいもの..の検索です。探してみましょう。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
11:07 | 昔語り | edit | page top↑
Wed.

ウエスト・サイド・ストーリー

あれま、Blog あけてみてびっくらこいたね。
朝からカウンタが300台へ乗ってる。こっちは、いつも、よくて三桁の前後なのに。

ありがたいこっちゃ...というわけで、ネタ尽きるまで、この路線でいっちゃう。
よちよち歩きから映画小僧で、近所の映画館で昼寝してた話は前に書いた。

で、蒲田に棲息していたころ、ふらりと有楽町へ映画観に出かけた。
先入観念、まったくなしで観たのが「ウエスト・サイド・ストーリー」

これ観たい...と出かけのではなくて、たまたま、ぶつかったというか。
1回目はストーリーを観て、2回目は音を聞いて...

70mmという大画面システム意識した、俯瞰から下りてくるオープニング。
あの指鳴らしから始まった...最新の音響効果に引き込まれた。

3回目で、ようやくストーリー追いながら音を聞いた。
つまり、ストーリーがどうこうではなく、総合された映画の出来に感嘆したのだ。

全部で10回以上は観たと思う。
これまでと全く違う映画の世界は、都会の片隅でくすぶっていた私を奮い立たせた。

映像の仕事がしたい。そのために、いま何をすべきか。
膝小僧を抱えて悶々、ま、若気の至りのあれこれ...は省略。

2030ca1055d9f191b5ef925701af358a.jpg
 ▲もちろん、サントラ盤もってる

この上映が、1961年(昭和36年)だった。
東海道新幹線の開通、東京オリンピックの3年前。

マリアのナタリー・ウッドが可愛いかった。相手役トニーはリチャード・ベイマー。
アパートの階段のところで歌う「マリア」は、ロミオとジュリエットのパクリだけど。

もっとも、ストーリーそのものが、ロミジュリの借り物。
ニューヨークスラムのチンピラの抗争の話に置き換えているわけで...

ベルナルドのジョージ・チャキリスは、若くて細くて、イキがいい。
ちょっと前のアクション映画みてると、同じ人とは思えないねぇ。

1961年のアカデミーでは助演男優賞をチャキリス、助演女優賞をリタ・モレノ。
当然ながらミュージカル映画音楽賞を受賞している。

シーンを思い浮かべて書いていたら、観たくなってきた。
今夜、ビデオをみることにしましょ。

■今日のみつーけ
【MIDI Date】映画音楽MIDI、シェルブールの雨傘...なんぞがあります。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
10:59 | ずたぼろ青春譜 | edit | page top↑
Tue.

銀座ACB

ん、銀座ACB? 
...と、このBlogまで足を運んでくださった方、だいたい、同世代と。

私は、まだティーンで、当時、住んでいた蒲田から、週1くらいで通っていた。
椎名町に、同郷の友人がいたので、池袋の「ドラム」にもときどき行く。

シニアの方々には説明要らないと思うが、いわゆるジャズ喫茶で生演奏が入る。
私が通ったころは、ヤマケイ、平尾昌晃、3人ヒロシなんかが活躍していた。

このあとに、日劇のウエスタン・カーニバルでロカビリーが爆発する。
ま、細かいことは、下にBookmarkしておいたので、どうぞ!!

「東京のジャズ喫茶」
こんな感じだった。入場料300円だったんだなぁ。貧乏人だったから大変だった。

「黄金の銀座ACB伝説」
こんなものでてたんだね。ちょっとほしい...かも。

地元にも、ジャズ喫茶があった。
私は、そこには下町つながりがあって、ときどき、♪星はなんでも...と歌ってた。

ま、いろいろあるけど、若気の至り...で省略。
東京オリンピックで、東京の街がガチャガチャになるちょっと前の話。

で、昨日の Oldies MIDI が一部でウケたので、MIDI site の紹介。
海外siteなので、自己責任でクリックしてくださいな。

「Golden Oldies 50's & 60's Juke Box」
50〜60年代のヒットナンバーはだいたい聞けます。


 △これがロカビリー/このお嬢さんたちも還暦だぁ...

「Just Oldies Midi Music」
60年代から90年代まで、ここにもたっぷりあります。

やっと給料なるものを貰いはじめて、ちょっと貧乏から脱出したころ、
待望の観音開きのステレオを買った。FMチューナーをオプションして8万円。

NHKのFM放送が試験電波で6時間。かじりついて聞いていた。 
で、すぐにオープンリールのテープレコーダー買って、月賦払うので貧乏に逆戻り。

夢中になって音楽聞いていたのが、60年代から70年にかけてだった。
実生活は、石鹸カタカタ、下駄ぽこぽこ、と銭湯にいってた...神田川の世界。

フォークコレクションもあるので、
またの機会に紹介しましょ。

■今日のみつーけ
【Cinema Room】
すいません、自分のコンテンツで。昔は maru という名前ででてました。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
10:50 | 昔語り | edit | page top↑
Mon.

Oldiesに包まれて

ときおり、昔の映画がみたくなったり、Oldies Music が聞きたくなったりする。
いまも、BGM には、♪ロック・アラウンド・ザ・クロックが流れている。

一昨年から昨年にかけて、わけわからん英文スパム攻撃かいくぐり、
世界中のWEb siteを駆けめぐって、 Oldies MIDIをかきあつめてきた。

世界を駆けめぐって...はちょっと大袈裟か。
オーストラリアに、なぜか集中していて、あとは香港、北欧。

けれど、けっこう、同じアレンジが出まわっていて、
そういう意味では、世界も狭いなぁ...と感じたりもした。

自分がいい...と思うものだけだから、Jazzも合わせて70曲ばかり。
JASRACK問題があるから、ここじゃ鳴らせないが、さわりないものをちょっと紹介。

【Lonely BIGI】こちらへお邪魔して、Oldies 楽しんでくださいな。

gsmoke.gif
 ▲今日の1枚はこれ/煙草の先みて...

このポスターは、1946年制作の映画「Gilda」のもの。
いつも思うけれど、終戦直後に、アメリカでは、こんな娯楽映画作っていた。

リタ・ヘイワースは、この映画が出世作で、これからスターダムへ。
長手袋のストリップ...といわれたシーンが有名。

意外なのが、相手役のグレン・フォード。
この映画あたりでは、若くて粋なヤンキー青年を演じている。

このポスターが、印象的な小道具に使われた映画があった。
題名をさきほどから小一時間考えているけれど、どうにもでてこない。

映画界を食い詰めて、トラックに撮影機材を積み込んで、田舎をまわる。
出演者募集という名目で、ちゃちな詐欺をする男...というストーリーだった。

そのトラックに、このポスターが貼ってあったんだね。
いかにもイタリア映画という佳作だったが、どなたか、題名教えてください。

で、グレン・フォードのおっさんは西部劇の印象が強いけれど、
1955年「暴力教室 」(Blackboad Jungle)での好演が記憶に残る。

そのキーワードが、♪ロック・アラウンド・ザ・クロック...なんだね。
ロック・ナンバーを用いた最初の映画だったし、
いわゆる反抗もの...のハシリだった。

この映画を上映すると、アメリカの若者が映画館で踊り出し、
それが、路上にまで広がっていって、「反抗する若者」が社会問題となった。

昭和30年上映だから、私は中学生でリアルにはみていない。
5年くらいあとに名画座で観たはず。

けれども、"暴力教室"という文字をみると、
♪ロック・アラウンド・ザ・クロックが頭の中で鳴る...という条件反射が起きる。

それは、映画や音楽というものが...
甘美な、あるいは、思いきり哀愁のこもった、
記憶に包まれて残ってるからなんだね。

ときには思い出して語り合うのも大切。
VIVA!! Cinema & Music.

■今日のみつーけ
【農家の嫁の事件簿】
いま、いちばんアクセスの多い人気ブログ。ほのぼのイラストがいいなぁ。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
10:43 | 映画のはなし | edit | page top↑
Sun.

鼻の穴から西瓜

午後からの痛みがやっと薄れてきた。どうやら結石が膀胱へ落ちたようである。
私の膀胱から尿道には7つの結石があって、昨年に3つ爆破して残り4つ。
これが、ときどき、ほんの少し動くのだが、ほんのすこしでも痛さは相当なもの。
お産の次に痛いというけれど、あいにく、私は男でお産の経験がない。

そうしたら、どなたか経験されたかた、もちろん女性だけれど、
鼻の穴に西瓜を無理矢理入れた痛さ...とおっしゃった。
で、鼻の穴に西瓜といわれても、私の混迷の度合いはますます深まるばかり。
ただ、緊急のため座薬を冷蔵庫に保管してあるので、いざというときは30分で治まる。

座薬で痛みを抑えつつ、麦茶がぶがぶ、コーラがぶがぶ、ウーロン茶がぶがぶ。
とにかく、尿道から下へ落とす算段をする。
昨年は、これが尿道でダムを造成してしまい、あげくは腎臓がダム湖になった。
で、超音波かなんかの波動を外から送って破砕した。

昔は開腹手術したわけだけれど、これがありがたいことに日帰りで出来る。
10日くらい経ったとき、小用の際にツツツッツ...と感触あって、チンコロリン。
想像では、真っ白で、カミさんの指輪にでもしてやろうかと思っていた。
が、TOTOに転がったのは、真っ黒けのイガイガ。あまりの醜さに慌てて流した。

c717af63214e85d785f7717beac5c0c0.jpg

しかし...なぜ、春先になると、この石たちは動きはじめるのだろうか。
そうしたら、カミさんが喝破したね。
おとーさんは、薄着になってくると、急に運動はじめるでしょ。
あれで、石が動くのよ。あはは、さもあらん。

冬の間は何もせず、ごろごろ、食っちゃ寝、むっくり起きては食い...
薄着になると、己が太鼓腹におののいて、慌ててルームランナー踏みはじめる。
いま,量ったらば81.6kg。思ったより、少なかった。
ほんと、84kgを超えそうになったときは、正直いって焦ったね。

だいたいが、学生時代は長距離ランナーで、そのあとに山歩きを何年かやり、
その余勢で磯釣りを何十年かやったから、常に61kgくらいをキープしていた。
よもや自分が肥満体コーナーに、なんて夢にも思わなかった。
大魚との闘いに備えて、日頃から鉄アレイやら鉄棒振りまわして鍛えてもいた。

腹筋、背筋、きっちりと割れていて、
ときどきは、風呂上がりの鏡に写るわが肉体に、しばし見惚れるナルシストぶり。
で、私の場合は、腹筋よりも背筋に弱点があったらしい。
時間に不規則な仕事をし始めて5年で、まず背筋が脂肪に包まれた。

ちょっと動けば減るからタカを括っていると、
ある日突然に腹筋が弾け、あっという間に脂肪が腹を覆っていった。
それでも、スーツを着てみっともない姿は避けられる体型。
そのうち家で仕事をするようになると、己が体型を他人に曝すことが少ない。

脂肪というものは、人目を気にしなくなると、かくも暴走するもの...と知ったね。
なおかつ、決定的なのは、煙草をやめたこと。
毎度いうように飯粒の一粒ひと粒が旨い。
食う...てこんなに幸せなことなのか、としみじみ思った。

この幸せに身を任せていると、なんと2年間で15kgの増。
いまや、高尿酸値で痛風の恐怖におののいている。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
10:40 | ぐだぐだ日記 | edit | page top↑
Sat.

台風の目に入った

その時は潮岬を目指していた。
半年前に能登半島を極めていて、次は紀伊半島...だったのだ。

すでに結婚していて、幼稚園の子供もいたけれど、
もって生まれた放浪癖はやまない。
生涯泳ぎ続ける弾丸魚のように、立ち止まると窒息してしまいそう...

ルーフキャリーに釣り竿くくりつけ、深夜の国道42号線をひた走った。
どこかで、ちょっと竿をだすが、それだけが目的ではない。

その土地の人情に触れ、美味いものを食い、
昇る朝日を拝み、沈む夕日を眺める。
誰にも束縛されず、何も考えず、2日か3日、孤りになりたいだけ。

このときは、台風が接近していたが、いつも、大して気にはしていない。
ところが、2日目に潮岬で折り返し、熊野まで戻ってくると強風、大雨。

食堂で見たテレビは、紀伊半島へ直撃を告げていた。
午後3時だというのに辺りは暗く、風はますますつのるばかり。

619-f04.jpg

鬼ヶ城の駐車場に車を入れて、シート倒して寝床をつくる。
目を瞑ってはみたが、揺れる、揺れる、車酔いしそうに車が揺れる。

どこでもバタンキュン。
放浪の修業を積んだ私でも眠ることはできなかった。

走るしかない…と三重県に向かう。どこだったろうか、
七曲がりの峠に差しかかる。
消防団の刺子を着込んだ人たちに止められた。

土砂崩れで通れないという。進退ここに極まれり。
結局、駐在さんの勧めで宿を取る。

土間へ入ると壁に赤提灯、テーブルが2つほどにカウンター。
2階の小さな部屋が商人宿。

さぞや一昔前は...という女将に案内され、
2階に上がった途端に停電した。
ほかに泊まり客はない。

こちらへ...と再び階下の居間に降りる。
時折、揺れる蝋燭の灯を受けて、初老の旦那さんが座っていた。

目の前に一升瓶とコップ。
私の前にもコップがおかれ、「まあ、飲むしかなかろう」。

一升瓶つかんで延ばした腕に、チラッとのぞいた刺青。
「釣りかな」蝋燭の灯の瞬きに、コップの縁なめながらの問わず語り。

「また、その話を...」
女将がたしなめるのを手で制し、小舟で漁する楽しさを語る。

九州の炭鉱町でてから何があったのやら。
日に灼けた顔の皺からうかがい知るには、私の年齢が若すぎた。

小用に立つ。先ほどの戸を打つ雨音がない。
小窓を開けて見ると、空を駆ける雲に切れ間。
どうやら、台風の眼に入ったようだ。

■今日のみーつけ!!
和香のキモチ <<<ワカパイ/井上和香ちゃんのブログ。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
19:36 | エッセイ | edit | page top↑
Fri.

失ったものは戻らない

天竜川河口へ遊びにいった友人が、
様子がおかしいぞ、渚が柔らかい、足首まで潜ってしまう、なぜだろう...と。

それを聞いて、すぐに閃いた。天竜川から下った流砂ではないか。
ダムの底に貯まっていた粒子の細かい砂ではないか。

それが、ここ数年の意図的流砂の影響で海岸へまわったのだ。
自然というものは、ほんの少し手を入れると、すぐに反応するものなのである。

佐久間ダムは、昭和30年の竣工。
わずか半世紀で、そのダム底は流砂に埋まっていて、ダムとしての機能は半減。

しかるに、流砂や砂利の供給をうけられなくなった河口周辺の浜は、
浸食によって削られ、もはや、それを止める策も見あたらなくなっている。

ダム底に溜まった砂は、濁り水の中に含まれている粒子の細かい砂。
だから足首が埋まるのだ。

が、いま、いいたいのはこれではない。
冬に、遠州灘の渚の中に立ち込んでメッコ(鰻の稚魚)を採る。

海のダイヤといわれるメッコが今年は豊漁だったという。
ところが、このメッコ網には、この時期に接岸するほかの魚の稚魚も入るわけだ。

漁師さんがいう。
おかげでメッコは採れたけどよう、鮎っ子がまるっきりいねぇ。

1228-f101.jpg

琵琶湖の鮎は夏になっても大きくならない。
で、別種の鮎ではないかと考えられていた。

これが陸封のためだと喝破したのが、石川千代松博士であった。
私財を投じて、明治32年に調査を開始し、大正2年に多摩川に移植放流した。

2年目にして立派な鮎に成長するのを確認。
これを契機に、琵琶湖産の稚鮎が、各地の河川に放流されるようになった。

海産鮎は、浜名湖で採取して畜養ののち、
愛知県豊川に放流されて、成功したとの記述がみられる。

天竜川の鮎は、琵琶湖同様に数が多すぎて大きくなれない...とまでいわれていた。
瀬に足を入れれば踏んでしまいそうなくらい稚鮎が走ったものである。

いまでは夕方の河原にいっても跳ねる鮎がいない。
ダムが流す粒子の細かい砂が石の表面を覆い、鮎の餌になる苔が育たないからだ。

それでも、繁殖の営みがないわけではないが、抱卵して下る落ち鮎は、
空が暗くなるほどの川鵜に追われ、どれだけが産卵場所へたどり着くのだろうか。

砂で埋まったダムを蘇生させ、河口周辺の浜が、
浸食されることを止めるための施策は、鮎を増やすこととは、相反するのである。

私は、鮎竿を、もう5年ほど握ってはいない。
現実に、浜の浸食は再々ニュースになるが、鮎の激減は釣り師が嘆くくらいのもの。

天下の急流に棲息し、代々、そのDNAを伝えてきた天竜鮎は、もういない。
戦後60年、便利さを求める代償に、われわれは、どれほどのものを失ってきたのか。
それが悲しい。

■今日のみーつけ!!
PSE法
突然でてきた中古電化製品を売れなくなる法律の説明。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
19:33 | 自然環境 | edit | page top↑
Thu.

大海原に挑んだ日々

□ソーフ岩

私は、20歳代には山屋だったが、
30歳前半のときからアドベンチャー・フィッシングに転向した。

ま、雲海が大海原に変わっただけだが、
その昭和40年代初頭でも、未踏の釣り場は、あまり残ってはいなかった。

おまけに、私は、こと遠征釣行に関して運のない男である。
かなり入れ込んでの遠征で憧れの地を目前にして、
Uターンした事が幾度もある。

もしも、そこに足を下ろし、竿をだしていたら、
わが生涯の釣り史に残るのだが、
なぜか海神のお気に召さず挫折を味わっている。

その最たるものが、わが釣友と交わした言葉であった。
竿をしまう時には、2人で遠征をしよう。
それを最後の花道としようじゃないか。

私はソーフ岩に行きたいといった。
八丈島から20時間、あと8時間で小笠原列島という位置にある。
だいぶ昔、ファイトイッパツッゥゥ...で、ここを登るCMがあった。 

南海のまっただ中、周囲80m、
高さ108mの岩が、まるで墓石のように佇立する。
渡礁出来るのはわずか1ケ所、水深は600mとも800mともいわれる。
昭和50年代初めに渡船に聞いたところ、チャーター50万円でOKが出た。

彼は、ベヨネーズ群礁を主張した。
ベヨネーズ列岩ともいい、ソーフ岩の手前ではあるが、八丈島から140km。
高速渡船で8時間かかるという。太平洋のド真ん中でシケたら逃げ場はない。
よほど安定した天気と海況の時でないとアタックはできない。

その彼は、50歳を目前にして蜘蛛膜下出血で、簡単に逝ってしまった。
私は、約束が違うじゃないかと、安らかな顔の彼を見て号泣した。
おまえ、とでなくては、いく気がなしい。
この計画は、彼の棺の中に入れてもっていってもらった。

211-y1.jpg

□銭洲

磯釣りの駆け出しの頃、先輩たちが銭洲遠征を企画した。
大型高速釣船での沖釣りで有名となったが、
当時は磯釣りでアタックする程度だった。

神津島の南西43kmに位置し、
ここに初めて釣り人が足を下ろしたのが昭和36年。
私が駆け出しの頃は、それより8年あとの事。

で、先輩に、「私も連れっていってください」と名乗り出た。
即座に戻ってきた言葉が「10年早いっ」。
もっと修業して、安全行動がとれるようになってからだ…というのだ。

その頃は厳然として、格...というものが生きていた。
もっとも、その先輩たちは日本の磯釣りというものを、
切り拓いた人たちである。

原野を歩き、鳥だけが通った岩礁に初めて取り付いた人達だ。
「はいっ」と引き下がるしかない。

が、機会は意外に早く巡ってきた。銭洲は神津島の管轄にある。
その神津島の渡船が急に大型化し、銭洲釣行をアピールし始めたのだ。
それは憧れの秘境が、
ただの釣り場となる事だったが、私にとってはいい機会だった。

それに先駆けて、銭洲渡礁に成功した仲間達から、
1人で石物13枚、
ロープに通しておいたら鮫が岩に乗り上げてきて、半分食われた...
などという話が伝わってきて、考えただけでも武者震いが止まらなかった。

さて、いよいよ釣行の当日。
下田まで迎えにきた神津島の渡船に乗り込む。

神津島港に一旦入って、恩馳群礁の横を通ると後は見渡す限りの大海原。
やがてポツンと岩影が見えてきた。

これが銭洲なのか…と感激したのもつかの間、船長の顔がけわしい。
ネーブルスに大きな波が被って、真っ白。
そのまま、船はUターン。とって返して、恩馳でお茶を濁した。

□イナンバ島

次は、イナンバ島。
伊豆諸島、御蔵島の南西約15kmの海上に、標高75mの岩礁がポツンと佇む。
昭和38年、米軍機の射撃訓練場だったのが解除され、
先輩達が初渡礁に成功した。

そのあと、当時のソ連の漁船が、サバ漁に頻繁に現れた。
慌てて海上保安庁がイナンバに取り付き、岩の頂上に日の丸を立ててきた。

さて、このイナンバは三宅島からの渡船になる。
ということは、東京竹芝桟橋から汽船に乗り、
一旦は三宅に渡ってからのアタック。

新幹線の中で釣り竿を抱え、東京駅からタクシーで竹芝へ。
島で一夜あかして、まだ暗いうちに出船した。

この時は三宅島を離れると灘が悪かった。
前日の波がまだ残っていたのだ。ただ、船長にはカンがあった。
この状況ならば波は落ちる。

が、イナンバに近づくにつれ、舳先がバタバタと波で叩かれるようになり、
遙か彼方に波しぶきか、霞か、イナンバらしき島影を見てUターン。

途中で本島から8kmの大野島群礁に寄ってみたが、
波と速い潮で近づく事もままならなかった。

■今日のみーつけ!!
アカデミー賞関連記事
第78回カデミー賞の詳細。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
19:27 | 釣りエッセイ | edit | page top↑
Wed.

カツオが好き...

カツオは、春浅い頃、九州沖や四国沖に姿を現し、黒潮に乗って北上、
遠州には早ければ3月終わり、それから、三陸沖まで行って引き返す。

いわゆる上り鰹、戻り鰹である。脂の乗りは戻りのほうがいい。
初鰹を江戸っ子が珍重したのは、
珍しもの好きとあっさりとした上り鰹の味にあったというが...さて。

生のカツオを藁で燻すのが土佐造り。
その昔、土佐藩で食中毒が頻発し、生食を藩が禁止した。

で、火力の強い藁で側だけを焼き、お触れをかいくぐったのが始まりとか。
これも庶民の知恵である。

カツオは血合いが多い。私はこれが好きだから、アラ煮が大好き。
骨の間に潜り込んだ血合いを箸でほじって食べる。
この血合いはカジキに匹敵する海のランナーの証しで、赤身は筋肉。

114-01.jpg

土佐は黒潮に洗われ、カツオ漁の盛んな土地柄。
土佐藩主、山内容堂公が江戸屋敷でカツオを所望した。
が、台所方から、江戸では3日分の賄料が必要といわれ、
お国返りまで我慢したという。

鰹節もやはり土佐が起源だとか。カツオが豊漁で鮮魚だけでは処理できない。
そこで燻して干す製法が考案されたのが始まり...だと。

それまでも骨付きの荒節はあったらしいが、
現在の鰹節は土佐与一が考案したとモノの本にある。

私達の幼い頃は、夕方になるとよく削らされたものだ。
削れなくなった欠片をしゃぶるのが駄賃。口の中で転がしていると軟らかくなる。

で、ガリガリと歯で砕く。顎も歯も丈夫になったものだ。
いまは真空パックで、ヒキダシの付いた鰹節削りの台所から姿を消して久しい。

江戸川柳では、下女が削ると乱暴で鼻息で飛び散る。
 花鰹下女鼻息で吹きとばし

時間をかけて丁寧に削るのは玄関番...という事になっていた。
 玄関番かつぶし箱をあてがわれ

庶民がこれでダシを取るようになったのは、ずーと後の事である。
静岡県内では田子節が有名。西伊豆は田子湊だ。
土佐や紀伊との黒潮つながりが起源らしい。

四国沖から紀伊、熊野、そして伊豆半島、伊豆諸島は黒潮で繋がっている。
陸上の交流がない昔から、海上でのつながりはあったのだ。

難破して漂流すれば伊豆に流れ着く。
伊豆半島や伊豆諸島に熊野権現の社のあるのが、その証しだという。

近年では熊野や紀伊から嫁を取る漁家が多かった。
つまり、海女さんの技術輸入である。
伊豆には、婆ちゃんの在所は、熊野や鳥羽という船頭が結構多い。

いまでも上りカツオを狙って、紀伊や土佐の船が黒潮を伝わって北上してくる。
で、沿岸の港に水揚げする。遠州灘では、こうした船を世間船と呼ぶ。
旅の船を受け入れ、技術や道具の知識を得る...昔から行われていたようだ。

近海カツオが獲れ始めると、漁港の直売所で1本が2000円くらい。
小さいもので1500円前後、まあ、女房を質にいれなくても食える値ではある。
新鮮なものを三枚に下ろすと、身の切り口が玉虫色に光る。

口に入れるとモチッ、これを称してモチガツオ。産地ならではの味である。
素人が釣って処理を誤ると、身がゴリゴリ。こっちはゴジガツオ。
そろそろ、カツオの便りが聞こえてきそうだが。ジュル。


■今日のみーつけ!!
室井佑月blog
小説家の日常を覗いてみますか。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
19:23 | 魚ウンチク | edit | page top↑
Mon.

四畳半襖の...

なにはさておき男の楽しみは、○○○○につきる。
それは十人十色、札束積み上げてニタニタ笑い、地位、権力を手中にご満悦の....

永井荷風の作といわれ、
淫文としては有名な「四畳半襖の下張」(野坂版)の書き出しである。

私の Web site のどこかに隠しページとして、全文があったような...
いつしか、その存在を忘れ、入り口のリンクも消滅。

さがせばHDDのどこかにあるかと検索してみたら見あたらない。
そうだ。この間のリストアで完全に消えてしまっていた。

で、野坂昭如氏の現代語訳が、
昭和47年、猥褻文書として摘発され、いわゆる「四畳半裁判」で敗訴した。

東京下町、花柳界の仕舞多屋の、破れし襖の下張に、この一文があったという...
確かに○○○○が連発されるけれど、内容としたら現代のエロ小説のほうが凄い。

まぁ、それほどに、性に関するタブーは雪崩的にオープンになってきたといえる。
Web site の時代には、まだ、それでも秩序があった気がするが、いかが。

これほどに、Blogなるものが普及すると、さらにエスカレートも極みに近づく。
ま、アダルトのカテゴリーでやられる分には、そこにいくいかないは、個人の意志。

それが、いかに匿名性があるとはいえ、
一般のカテゴリーで、それらしきタイトルがちらりほらり。

s018-1.jpg

後学のために一度は覗きにいく。
閨の事々、自らあからさまに晒してあるのをみると、
私は尻に帆掛けて逃げてくる。

そりゃ、私だって男。まだ、卒業したわけじゃない。
けれど、最近のこうした風潮、個人的には、エロスよりもグロを感じてうんざり。

私が、インターネットをはじめたのは、1999年だった。
DSL以前のもうイライラする接続の中で、オンライン、オフライン繰り返した。

NTTの請求書みれば、卒倒しそうな金額。
興味がエロにあったのは否めず、PGFがどうしたの...という情報が行き交った。

しかるに、海外直リン画像があふれる現在、そうしたものには嫌悪しか感じない。
過ぎたるは及ばざるがごとし...なのだ。

おまえがジジィになったからだろ...ま、そういうなかれ。
昔からエロスの神髄は、そこはかとなき...ところにあるのだ。

エスカレートを重ねたその先は、常軌を逸した倒錯の世界にしかない。
それを、場所わきまえず押しつけられるのは、
迷惑だと思う人も存在するということ。

世の中がこうであるからこそ、私個人は、ますます嫌悪感を募らせてしまう。
で、そこはかとなき着衣の下のチラリ覗く丸みに、
久しくうたた寝の愚息が目を醒ます。

四畳半といって、ピンとくる世代はどこまでだろう。
いまは、ワンルーム、鰻の寝床のような...

私が四畳半ならぬ4年半も棲息していたのは、
都会の片隅の、蛞蝓がでてきそうな湿り気のある三畳間だった。

万年布団に座り机がひとつ。押入はない。部屋の四隅に本が山と積んであった。
三畳だと、足を机の下にいれないと寝られない。

薄暗い部屋の裸電球に照らされた、天井の染み眺めつつ、
己が行く末考えて、青春悶々の日々を送っていたのは最初の2年。

後は麻雀屋にくすがりこみ、食うも寝るも成り行き次第。
喀血して療養所に移るとき、三畳間の畳には布団の跡がくっきり残っていた。

四畳半襖の下張、最後の一節。
次に記して、おしまい。

ともに横たわり、手を握りあっていた、そしてようやく、これが女と合点がいった。
この夜に較べりゃ、他はすべて白漬みたいなもの、俺は女を落籍せて...
(あとは汚れて判別しかねる)

■今日のみーつけ!!
富士山ライブカメラ
霊峰富士をごらんください。あ、夜はダメですよ。見えません。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!ス
19:09 | エッセイ | edit | page top↑
Sun.

SLの蒸気の匂い

下町の私の家のある一角から大通りにでて一直線で本駅へぶつかる。
小学校3年生くらいだったと思う。

先生がクジを引いて当たったとかで、引率されて駅に向かった。
駅のプラットホームにはよその学校の生徒も小旗を持って並んでいた。

まんなかに小さな台があって、その横に市長が待機している。
ただいま、○○駅を通過。まもなくホームに入って参ります...とアナウンス。

やがて、静かに、ほんとうに静かに、小豆色の車両がホームに入ってきた。
そして、市長の真ん前に、菊の紋のついた窓がぴたりと止まる。

そこに、昭和天皇がお立ちになって手を振られていた。
市長が台に乗ってバンザイと叫ぶ。私達がそれに合わせてバンザイとつづく。

6202.jpg

そのころ、この街から東京までは電化されていて電気機関車。
この駅で蒸気機関車に換えて西へ向かっていた。そう、昭和27年頃の話。

お召し列車といえども、機関車を換えるので、この駅に停車する。
静まり帰った駅の中に、
スルスルとはいってきた列車の小豆色と菊の紋が記憶にある。

昭和28年に沼津まで、昭和30年には名古屋、大阪までは昭和31年。
案外と電化のテンポが早かったようだ。 で、浜松までという記述がない。

ということは、電化が西へどんどん進んでいったので、
この駅で機関車を交換したのはそれほど長い期間ではなかったらしい。

そうしてみると、担任が当たりクジを引いたおかげで、
私達は、お召し列車の機関車交換を見るという貴重な体験をさせてもらったのだ。

その10年ちょっと後には東海道新幹線が走り抜けるようになる。
いま思うとそのテンポの早さに驚く。

もっとちっちゃなとき、石炭のにおい...なのか、蒸気のにおいなのか。
あれが好きだった。 構内で入れ替えをするところを、日が暮れるまでみていた。

自動車が残していくガソリンのにおい、そして蒸気機関車のにおい。
思い出の中の"におい"は、なぜかイイにおい...である。

そういえば、味だってそうだ。
思い出で味付けされたご馳走に勝る味には出あえない。

町内の向かい側には私鉄の電車が線路があった。
ラッキョ軽便といわれた軽便時代の記憶はあまり多くはない。

たしかに、煙突が長くてその先がラッキョのように膨らんでいた。
煙を吐いて走る姿の記憶は薄いが、甲高い汽笛は耳に残っている。

ガキ大将が、雨が降ると車輪が滑る。だから砂を撒くんだぜ。
と、講釈たれて小鼻を膨らませたっけ。

電化は昭和27年。軒先をかすめるように町並みを抜けていた。
西へいくとお城下にトンネルがあった。ここが子供たちのテリトリーの境界線。

トンネルの入り口で線路に耳を当て、電車の気配をさぐる。
音がしなければ80mを駆け抜ける。

これは電車がくる恐怖の克服と隣町のテリトリーを侵すという二重の冒険だった。
ガキはガキなり、これをクリアして一人前であった。

■今日のみーつけ!!
愛の代筆くん
こういう感性のラブレターでハートが射止められたら...あとが大変。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
19:04 | 昔語り | edit | page top↑
Sat.

いんぐりもんぐり

やまんばさんのブログ読ませていただいて、私にもある情景が浮かんできた。
なぜか、床屋というものをイヤがって、
なんやかやと一日延ばしにした記憶がある。

私達の時代は生まれたときから丸刈り。それで18年間過ごした。
だから学帽...てやつが欠かせなかった。

私立だったから、白いカバーの学帽に半ズボン。
クラスにはボッチャン刈りもいたけれど、私はクセ毛だったからイガグリ。

もっと小さな頃。
なぜか遠くの坂の上にある床屋さんにいかされた。

父親は、戦時中は軍需工場やっていて、
その床屋さんもそこで旋盤回して鉄砲弾造っていたという。

で、月に1回、バリカンでさっぱり、くりくり頭にしにいく。
まだ、電気バリカンじゃない、シャキ、シャキと耳の上で音がした。

男の子でも、おのれの顔がデカイ鏡に映るのは面映ゆく、だいたいは狸寝入り。
早く終えて帰りたいから、ときどき目を開け、鏡の横の時計を見る。

顔を剃るのはオジサンがいい。オバサンはイガグリの額の生え際を丸くする。
オシサンの直線角張ったほうがオニィちゃんに見える。

だから、狸寝入りしながらオジサンがくるよう...祈ってる。
カミソリを皮ベルトでこするとき、大きくパッパッとやるのがおじさん。

y15-3.jpg

だから、狸寝入りしていてもパッパッ...を聞くとほっとする。
男は男らしく凛々しくなければいけない、ちっちゃいながらそう思っていた。

時代がかった木枠のついた立派な鏡。その横にプロマイドが貼ってあった。
丸顔の少女が馬と一緒に写っていて、
これが「馬」という映画だと知ったのはずっと後。

その床屋さんは坂の上にあった。木炭バスが気息エンエンであがってくる。
後ろに背負ったお釜から白い煙を吐き出す姿が、大きな鏡の中に写る。

鏡の中の木炭バスだけの記憶がある。
で、木炭燃やして何で走ったのかとググってみた。(代燃車の詳細←でどうぞ)

ほんとに気息エンエン。胸突き八丁にある床屋の前では、もう止まりそうだった。
すると、近所の悪ガキがお釜の横の木材カゴにぶら下がったりする。

昭和25年までは、あの気息エンエンが走ったというけれど、そこんとこは記憶がない。
いつしか、ガソリン車になって、通り過ぎるとイイ匂いがした。

道路の真ん中に飛び出して、ガソリンの残り香かいでくんくん鼻鳴らす。
車なんて、次々くる時代じゃないから、道路真ん中でも危なくはない。

で、自転車の練習だって街道の真ん中でした。
子供用自転車なんて持ってる人はない。大人用へ三角乗り。みんなこれで覚えた。

ペダルの上の三角部分。あそこへ右足入れてペダル踏む。
ちょっと慣れて立ち乗り。サドルにお尻が届くのは中学生になってからだ。

補助輪もなにもない。
何度も何度も、どでんっと転びながらに三角乗りして乗れるようになる。

自転車に乗れるようになると特別な任務を課せられた。。
母親の里に米をもらいにいく。ヤミ米の移動を規制していた時代である。

天竜川鉄橋を渡って東海道の松並木にかかるところ、お巡りさんがいて検問があった。
子供だから、後ろに風呂敷包みが縛り付けてあっても、なんなく通り抜けた。

が、まだ、ペダルに足が届かない。
片一方ずつペダルを踏んでいんぐりもんぐり。往復すると尻の皮が破れて血が出る。

で、父親が、ホィールサイズの小さな自転車を特注してくれるという。
うれしかった。毎日、わくわくしながら、門扉の上にまたがって父親の帰りを待った。

約束の日を過ぎて、いつまで経っても自転車はこない。
そのうち父親も帰ってこなくなった。

なんと父親の会社が倒産していたのだ。
しばらくして、家んなかの家財に赤い紙がベタベタと貼られた。

■本日のみーつけ !!
mumurブルログ
世の中、いろんな見方があってもいい。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
19:00 | 昔語り | edit | page top↑
Fri.

ブル510...

これまで何台の車とつきあってきたか数えたこともない。
そのなかで、いちばん印象の強く残っているのが、俗にいうブル510。

テールのウインカーランプが、
タララッ、タララッ...と流れるのがカッコよかった。
あれに惚れたのかもしれない。

もちろん中古車だったけれど、
納車のその晩は車の中で寝たくらいうれしかった。

510との別れは呆気なかった。
8万km走行ともなると、ツインキャブの調整が難しい。

ある時、調整が上手くいって絶好調。
で、調子に乗って、雨降りの交差点でフル加速したら見事にスピンした。

両側は田圃だが道路脇の電柱に激突。
自分は無傷ながらも、ブルはエンジン大破してあえなく昇天。

わずか半年の付き合いだった。
この次の次に、810の新車に乗ったのだが、
借りてきた猫のような廃ガス規制対策車。

419-321.jpg

その落差が510への思いを強くしているのかも知れない。
これ以降、私のブルーバードSSSへのこだわりは消えてしまった。

で、510の次は23万円のコロナハードトップGT。
これもリアウインドウから雨が漏って、トランクに水溜まりができるという代物。

廃ガス規制が、たしか昭和53年だったと思う。だから、その頃だ。
だいたい、日曜日はボンネット開けて、どこかをいじっている。

新車を買うカネもなかったが、車をいじるのが好きだったこともある。
そうでなければ、行くあても決めずに、下道(国道1号線)走っている。

ルーフキャリアに釣り竿をくくり付ける。
例によって深夜に出発し、目指したのは、なぜか若狭湾。

まだ北陸道はなく、関ヶ原から琵琶湖のほとりを通って峠越え。
木之本の町を過ぎた頃から雨になった。

峠にかかると雨脚が増し、ワイパーはハイ。下り始めると前が見えない。
やがて夜中に電気煌々とつけた釣エサ店が並ぶ。

若狭、敦賀への峠道、山の中にエサ屋の駐車場に車を入れ、座席を倒す。
ルーフを叩く雨音が耳についたのは、ほんのしばらく。やがて無。

暑くて目覚める。時計を見ると10時。6時間ほど眠り呆けてしまった。
雨はすっかり上がり、周りの樹木に当たる太陽が目映い。

キーを回す。カチッ、後は無音。
ボンネット開け、デストリビューターの湿り気とる。
ようやくエンジンが回ったのはお昼過ぎ。
峠を下って飯食ったら3時をまわっていた。

で、気が変わった。どうせ一人の気まま旅、行く先の変わるのは珍しくない。
8号線に出て左は若狭、右が敦賀。一瞬、迷ったが右折する。

トラックに交じり、ひたすら走って敦賀半島に到着。
すでに日は落ちて、辺りは真っ暗。海水浴場見つけて竿を出した。

なーんにもアタリのない中、また小雨が振り出す。
九州に台風が上陸したのを知らなかったのだ。やがて大粒の雨。

道具を片付けにかかると竿が倒れる。その竿を拾って、
歩こうとしたら後ろにグイッ。
渚で暴れるヤツを引き上げてみると、これが40cmのチヌ。
日本海での初チヌだった。

結局、台風余波の雨の中、再び動かなくった車を預けて夜汽車に乗る。
少し動いては見知らぬ駅に止まり、東海道線に出たのは翌朝のこと。

これがトランク水溜まりコロナとの別れでもあった。
この後、あるいきさつがあって、新車のブルSSSに乗って欲求不満となる。

■本日のみーつけ !!
森村誠一公式サイト
見ていただきたいのは、このコンテンツにある「宮田美乃里特集」
3月27日は、歌人、美乃里さんの一周忌となる。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
18:55 | 昔語り | edit | page top↑
Thu.

で、どうする、食べる?

■で、食べる?

昨年の春だったね。キレモノ国務長官がきてプレッシャーかけて去ったら、
担当大臣のいうことが、ころりと変わった。

で、結果としていいかげんなままに輸入が再開された。
アメリカだって政界の構造は変わりゃしないから、
食肉業界にせっつかれた議員が、ちょっと脅しをかけたりする。

なにかといえば、日本車を引き合いにだして、報復するぞってね。
日本人の脳味噌がスポンジになったって、どーてこたぁない。

だいいち、自国の消費者がBSEの事実を知らされていないという。
今度も、どこまでプレッシャーに耐えられるかだね。

再開したって、根本的に検査態勢が変わる訳じゃなかろうから、
また、同じような危険部位混入の牛肉が入ってくる可能性は大いにある。

で、どうする...て話。
あたしゃ...赤ちゃんこちょい超えになってから、
ステーキ食いたいって欲望もめっきり減ったから、どってこたぁないけど。

輸入を再開しても、危ないものは食べなきゃいいわけで、ここんとこは自己責任。
別に不買を奨励するわけじゃないが、こういう心理は世間大多数にあると思う。
実際に、輸入再開しても売れ行き悪かったら損するのはどこなんだ?

けれど、人の噂も75日という国民性だからねぇ。
そのうちになしくずしになるんだろ。で、結果は何年か経ってからでる。おおこわぁ。

食い物の大半を輸入にたよっているこの国は、
外国からの輸入がなくなったら自給できるモノはごく少ない。
もしも、食料難になったら飽食が当たり前の世代はどうなるのかねぇ。

赤ちゃんこちょい超えの私らの年代は、ひもじい思いを多少は経験している。
ふわふわで、なかがまっしろなコッペパン、旨かったなぁ。

■あれ? 方向転換?

先ほどのニュースで、
韓国大統領が、靖国、竹島問題での国内世論を抑える発言をしたという。
先日の「竹島の日」には、デモ隊が日の丸を焼いたり、島根まで出かけてきたり。
相変わらずの抗議があったらしい。

あるブログで読んだ話。
韓国の若者に、竹島が日本の領土だという歴史的背景が日本にもある...
といったら、初めて聞いたと驚いたという。
歴史的経過には、根拠ある日本のいい分がある。

自国の主張だけを教育の中で徹底してやってきた国と、
触れたくないものには蓋をして、知らんぷりしてきた国の違いは歴然としている。
うちの中学生はこういった。
「そんなに諍いするのなら、あんな岩だけの島なんてくれてやればいい」と。

110-6.jpg

110-7.jpg

去年のことだけど、
やはり新中学生が「いがみあうならくれてやればいい」と同じこといった。

ということは、教育の基本姿勢が同じなのか。
そうだな、ちょっと前まで、君が代や日の丸を拒否する教師たちがいた。

私が思うには...
自分の領土に、隣国が桟橋を造り、施設を造っているそのときに、
知らん顔でほっかぶりした...あのポマードテカテカ元総理の罪は重いね。

で、韓流おばさん達、どうしたかなと思っていたら、
なにごともなかったかのように隣の国へいってるんだね。
彼女達のバイタリティ...というか、わが道をいく...というか、ある意味ではご立派。

ところで、イナバウワーの静香さんに早速電話したコイズミソーリ見た?
去年の今頃はリチャード・ギアとShali dance...してたけど。
ああいうのは得意だね。これも、ある意味ご立派。一時期、あれに騙されたんだなぁ。

■本日のみーつけ !!
きっこのブログ
的確な時事予測で背景はあるのか? それは誰なのか? といま話題のブログ。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
18:50 | 社会現象 | edit | page top↑
Wed.

シニアの定義と意識

このBlogのルーツを遡ると1999年の「Yahoo Diary」がスタートだった。
振り返ってみると、足かけ7年...という年数にびっくりする。

「さるさる日記」が4年、「goo Blog」で初めてブログというものをはじめた。
gooで1年経過して1GBにころりと参って「Fc2 Blog」で早1年余。

ランキングなるものがあまり好きではなかった。
といいつつ、「ブログ村 ランキング」だけに参加している。

で、カテゴリーが「シニア」である。
参加して3ヶ月、それとなしに見ていると、失礼ながら面白い。

つまり、Seniorという解釈がだ。
前にも書いたけれど、シニアとは50歳以上...という定義があるらしい。

しかるに60歳ともなると、はたまた「シルバー」という御席が待っている。
してみると、シニアとは50歳代というはなはだ中途半端な年代なのだ。

かく申す、私め...は還暦赤ちゃんこ超えてちょいだから、もはやシルバー。
明らかに40歳代のおかたと一緒は違和感なきにしもあらず。

br110-1.jpg

で、もはや中年とおっしゃるシニアのかたの「中年」を広辞苑で紐解く。
「青年と老年の中間の年頃 40歳前後の働き盛りのころ」とあった。

この解釈だと、中年=シニア...ではないので、
みずから、シニアに足をつっこむのは、もったいないと思うのである。

ついでに「老年」をひいてみた。
「年をとったこと、また、その時期」とかなり抽象的だが、老年期ではがっくりくる。

「老年期」
年をとって環境への適応の能力が衰え、知能の低下、その他の変化の起こる時期。
これはもう、ボケ老人、認知症扱いではないか。

私の表紙ボロボロ広辞苑は昭和55年購入の第二版補訂版。
老齢社会に突入していなかったから、だいたい、こういう解釈だったのだ。

これでは情けないので「Senior」でネット検索してみた。
「高いランクや地位をもつ」「年長の...」という意味。なんとなく、気持ちよく納得。

で、実際にアメリカでどう定義されているかというと...
シニアクラブの会員資格が50歳以上。シニア割引は65歳以上であるとのこと。
ま、いまの日本の実体もこのあたりかな...と思う次第。

この検索では、ひとつ収穫があって「Third Age」という言葉。
直訳すれば、第三の世代。なかないいではないか。

いっとくけれど、赤ちゃんこちょい...はまだまだ生臭い。
いろんな面で、ばりばりとはいかないけれど、そのかわり...というものがある。

...は何だというと、キャリアによる引き出しの数は多いから、
なにやかやと、誤魔化し、切り抜ける、手練手管は知っているということ。

で、「純正サードエイジ」の私からみて、
40歳代の自称シニアの方々に、モノ申したい。

そんなに早くからシニアに潜り込むのはもったいない。
もう、ひと踏ん張りも、ふた踏ん張りも、して欲しいのである。

■本日のみーつけ!!
杉村太蔵 ブログ
タイゾーセンセイ、国会をサボって幹事長のオツカイなんぞをしております。

ブログランキング・にほんブログ村へ ←ランキングに参加しています/愛のクリックを!!
18:45 | 遊々爺的生活 | edit | page top↑